十五少年漂流記 海賊島DE!大冒険

12月6日(金)晴れ

 109シネマズ川崎でアニメーション『十五少年漂流記 海賊島DE!大冒険』を観る。

 ネコの世界のテーマパーク「ニャンポンランド」では、最新式の大型潜水艇:ダイカイオーに乗り込んで15人{匹?}の少年たちが探検をおこなうという企画の前夜祭が開かれている。トラネコのドリアンは、弟のチェリーがダイカイオーに乗り込みたいとわがままを言うのに手を焼いているが、探検隊の副隊長であるドリアンが、自分の仲間たちを誘って前夜のうちに試験的な航行を行おうとしていることを知り、自分たちも乗せてもらおうと思いつく。

 多少の波乱はあったが、15人{匹?}の少年少女がダイカイオーに乗り込む。そして深海までたどり着き浮上しようとすると、プランクトンの群れにであってシステムが乱れ、浮上すると、海賊が環境運動家の令嬢の乗った船をおそっている場面に遭遇し、海賊船に撃沈されただけでなく、海面に生じた大渦に巻き込まれる。気がついてみると、彼らは電波が通じず、海図にも乗っていない不思議な島に到着していた。少年たちは外部との接触ができないなかで、自分たちの住む場所を見つけ、工夫しながら生き延びていくが、レーモンとドリアンの反目により、少年たちの結合も危機を迎える。しかし、海賊たちの攻撃に直面して、彼らは再び団結を取り戻す。

 多くの人たちが、特に男性であれば少年時代に読んだことがあるはずのジュール・ヴェルヌの小説『十五少年漂流記』のアニメーション映画化。原作の設定とあらすじを大きく変更している。原作はもともと『二年間の休暇』という題名の一種のロビンソン小説で、少年たちが限られた物資しか持たずに無人島に漂着し、自分たちの博物学的な知識と創意工夫を利用する一方で、勇気と団結と協力の力で難局を乗り切っていくという少年たちの成長の過程を描くものであるが、日本では明治時代の森田思軒の翻訳以来『十五少年』という受け止め方が定着し、どちらかというと少年たちの団結と協力の意義に強調が置かれて読まれてきたように思われる。

 今回の映画化では物語がネコの世界に設定されている。漂流する15人には少年たちだけでなく少女たちも含まれている。原作で少年たちは同じ学校の生徒であることにより団結心をもっているのだが、その点がこの作品ではあいまいにされている。物語の舞台として一方で現代のIT技術が活用される世界があって、他方では前近代的な海賊が出現するだけでなく、彼らが漂流した島に漂着してそこで命を終えた人物が、彼らの潜水艇を沈めた海賊たちの頭目の父親ということになっている。島ではさまざまな不思議な現象が起き、異様な姿の生物が出現するだけでなく、海賊の父親が残した財宝が残されている。

 ヴェルヌの原作は彼の科学的な知識に基づいて書かれているのだが、この脚色では博物学的な知識は無視されている。ネコだから肉食であるはずなのに、果物を探して食べたりしている。それどころか科学を超えた存在が登場する。また原作で強調されている少年たちの英国系、フランス系、アメリカ系という出自に基づいた対立も無視されている。少年たちの対立はあくまで個性の衝突によるものである。

 ヴェルヌの作品はその描いている不思議な出来事の多くがその後の科学技術の発展によって乗り越えられたり、場合によっては否定されており、最近では彼の作品の冒険的な要素を評価する意見が多いとも聞く。その意味では原作の冒険的な要素を強調するのは間違っているとはいえないのだが、どうも強調の仕方に問題がある。冒険を成し遂げている力が少年たち自身の自発的なものではなく、超自然的な働き掛けによるもののように描かれているのはどういうことだろうか。

 わたしはヴェルヌの作品を20作以上は読んでいるという程度に、彼の熱心な読者なのであるが、それだけに空想科学小説の先駆者の作品に非科学的な色合いの強い脚色を施すというやり方には賛同できない。クレジットで見た限りでは、この作品のかなりの部分が中国人アニメーターの参加によって製作されているようで、その技術の確かさは評価しておきたいのだが、その技術をもってしてもヴェルヌの想像力の自由な羽ばたきが十分に伝えられなかったことを残念に思う。
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