宇治拾遺物語(2)

10月11日(金)晴れ、暑い

 NHKカルチャーラジオ「文学の世界』『むかしがたりの楽しみ 宇治拾遺物語を繙く』の第2回を聴く。昨日の放送分を聴き逃したので、その再放送を聴いたのである。講師は白百合女子大学教授である伊東玉美さんである。第2回は「病と死をめぐる説話」と題されていて、むかしものがたりに反映されている昔の人(中世人)の死生観が現在とは異なったものであることが論じられた。

 冒頭、「説話集は、これから語ることが、昔あった事実を語り継ぐ、むかしがたりの伝統に則っているのだということを、それぞれの方法で読者に表明するのが基本」(17ページ)であると述べられている。『今昔物語集』が各話の冒頭・末尾に「今は昔」「~となむ語り伝へたるとや」という定型表現を、一種の標識として置いているのがその代表的な例である。『宇治拾遺物語』の各話も、ほとんど、「今は昔」あるいは「これも今は昔」と語りはじめられている。

 このような語り口をめぐる約束事を守りながら、語られるそれぞれの物語は本当におきた不思議な出来事を取り上げている。今回は、まず『今昔物語集』巻26本朝
宿報の説話を取り上げ、ある家の召使の少女とその少女と平素から仲が悪かった隣家の犬とが、少女の病気をきっかけとして不思議な最期を遂げるといういような物語を伝え、これも両者が前世以来の敵同士だったからであろうかという編者の言葉によって締めくくられているという。どうも異様だが、だからこそ文学的な意義があるともいえる。

 その一方で、この説話の中で病気になった少女を雇い主が屋外に出そうとしていることが現代とは違う価値観を物語っていると伊東さんは説いている。この時代は健康な人、あるいは生きている人を優先する価値観が徹底していたので、治る見込みのない病人は邪魔者扱いされていたのであるという。病気や死を嫌う心理自体が、事件の核になっている説話もある。『今昔物語集』29-17話がそれで、老人の葬儀にかこつけて寺の鐘を盗むという大掛かりな詐欺のいきさつが語られている。しかし詐欺が成立するのは死穢を嫌う人々の心理があるからである。現在の葬式仏教の姿からは想像できないことであるが、当時の仏教者は基本的に神聖で高貴な存在であり、死の穢れにまみれるべきものではなかったのである。

 この忌避感覚があったからこそ、僧でありながら、あえて死穢を顧みず死者を悼む僧がいれば感嘆されたし、死者を葬る仕事に逢えて携わっていく仏教者たちも現れることになったのであるという。このような、「穢れの忌避」あるいは葬送に関する感覚を知っていると、説話の意味がより的確に理解できる場合があるとして、『宇治拾遺物語』の興福寺の僧仁戒商人の入寂をめぐる説話が最後に取り上げられている。

 中世の説話を通じて、不思議な物語にであうだけでなく、現在とは違った人々の価値観や生き方を知ることができるということを説こうとしているのかもしれないが、やや話がまだるっこしくて核心がつかめないという印象が残る。『宇治拾遺物語』を中心にすることを予告しながら、他の説話集の説話が多く引用されているのも腑に落ちない点である。とはいえ、まだ始まったばかりなので、もう少し様子を見ることにしよう。
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