荒井章三『ユダヤ教の誕生 「一神教」成立の謎』

10月6日(日)曇り時々晴れ

 9月30日に荒井章三『ユダヤ教の誕生 「一神教」成立の謎』(講談社学術文庫)を読んだ。『旧約聖書』の概要をたどりながら、ユダヤ教の成立過程を明らかにしようとする書物である。聖書についてはある程度の知識はあるが、ユダヤ教については知るところが少ないという人が多いのではなかろうか。私自身についてみても、子ども向けに書きなおされた『聖書』の物語を読んで以来、聖書にはかなりのなじみがあるが、ユダヤ教にはそれほどのなじみはない。神戸にあるユダヤ教のシナゴーグの前を通ったことがある、そういえばヨーロッパの都市で黒ずくめの服装でひげを生やしたユダヤ教徒の姿を見かけることがあった。

 もっとも聖書になじみがあると言っても、その全体を読んでいるわけではないし、カトリックの公共要理を途中まで受けただけであるから、理解が十分ではないのは言うまでもない。だからこの書物は、ユダヤ教についてだけでなく、旧約聖書についての知識を整理し、理解を深めるのにも役立つものである。

 「プロローグ――ユダヤ教とは何か」ではユダヤ教には一方で膨大な経典があり、その全体を簡単に把握することはできないが、その一方でその本質は、人間の行動原理を示すこと、律法の実践に求められることを述べている。

 ユダヤ教ではキリスト教の『旧約聖書』は「トーラーとネビイームとケトゥビーム」と呼ばれる。トーラー(律法)は「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の5巻を指し、ネビイーム(預言者)は「前の預言者」と呼ばれる「ヨシュア記」「士師記」「サムエル記」(上下)「列王記」(上下)と、「後の預言者」と呼ばれる「イザヤ書」「エレミヤ書」「エゼキエル書」「十二小預言書」を、ケトゥビーム(諸書)は「詩編」「ヨブ記」など残りの書を言う。この中でトーラーはモーセがシナイ山で啓示されたものであり、特に重要な意義を認められてきた。「トーラー」は歴史を生きてきたイスラエルの「行動原理」を示す歴史的証言なのである。

 第1章「導く神―放浪の民に与えられた約束」では、アブラハムやヤコブなどイスラエルの先祖たちについて語る「創世記」の伝承に光を当てながら、彼ら族長たちに現れた神が「導く神」であることを明らかにしている。定住しない小家畜飼育者の神であったから、場所とは結びつかず、飼育者たちを守護し、導く神であった。第2章「解放する神―エジプト・奴隷生活からの脱出」では、モーセにはじめて「ヤハウェ」という名をあらわにした神が、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を解放することにより、族長たちの「家族共同体」を超えた民族共同体の神となったことを「出エジプト記」を中心に述べている。第3章「戦う神―「聖戦」と約束の土地カナンの征服」では、イスラエルの民のカナン定着についてのいくつかの学説を参照しながら、彼らが「ヘブル」と呼ばれるに至った経緯に迫る。今日のパレスチナ問題を考えると、あらためて旧約の当該個所とともに読み返す必要がある個所である。第4章「農耕の神―農業王国としてのイスラエル」では、本来半遊牧の小家畜飼育者の神であった「族長の神」が、農耕の神に変身せざるをえなかった理由を、王国体制の中に求めている。イスラエルの民の社会は、彼らが農耕にかかわることによって王国を成立させたが、その一方で貧富の差の大きな社会が出現することになる。本来小家畜飼育者の神であったヤハウェがカナンの農耕の神であるバァルと同化するようになるが、このような動きがソロモン王国の支配者によって支持される一方で、預言者たちの批判を受けることになるという。

 第5章「審きの神―王国の発展と選民思想の強化」では、預言者による「選民思想」あるいは「王国」批判を取り上げ、メシア思想の淵源についても言及している。第6章「隠れたる神―ユダ王国滅亡の衝撃」では、新バビロニア帝国によるエルサレム破壊とユダヤ王国の崩壊によるバビロン捕囚の時期に活動した預言者エゼキエルの思想を中心にして、「一神教」成立の前段階を考察する。第7章「唯一なる神―世界の歴史を導く神へ」では、エゼキエルよりやや遅れてバビロンで活動した「第二イザヤ」の説く「創造神・唯一神」と「苦難の僕」の両面性について触れる。キリスト教とと違ってユダヤの民は依然としてメシアを待望し続けていることが述べられる。第8章「律法の神―ユダヤ教の成立]では、祖国を失った民が、その拠り所を「律法」と「メシア待望」に求めるが、この2つは決して異質なものではなくて、律法をまもることも、メシア待望も救済の待望につながっていることを述べる。

 エピローグではイスラエルの民の歴史が「周辺から中心へ」と「中心から周辺へ」という相反する動きの繰り返しであるとはいうものの、「周辺性」が本質的なものであるという。ただし、それは現実的な場所を意味しているのではないとも断っている。そして最後に「強者の論理を捨て、弱者の立場に立たなければならない。そうして初めて、強者も弱者もない社会が生じる」(269ページ)という。それが歴史の枠を超えた真の意味での「ユダヤ」であるというのだが、著者が下している結論はあくまで理念的なものであって、現実のユダヤ人の生き方や、「イスラエル」国家とはあまり関係がない(安易に結びつけるのは危険でさえある)ように思われるのは困ったことである。

 ユダヤ教の本質である「行動原理」は多少形を変えてキリスト教に継承され、さらに欧米の思想の根底を成す精神の一つになっている。その「行動原理」の性格についてあらためて考えさせられた書物であった。
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