宇治拾遺物語

10月4日(金)曇り

 10月3日からNHKカルチャーラジオの「文学の世界」では伊藤玉美さんによる『むかしがたりの楽しみ 宇治拾遺物語を繙く』がはじまった。「中世」の説話文学の中で、『宇治拾遺物語』は代表的なものと考えられている。私自身も、確か高校時代に教科書でこの中の説話を習っただけでなく、受験参考書として編集された抜粋と、岩波文庫版とを読んでいる。のびやかで読みやすい文章で書かれており、量もそれほど多くないので、古典といわれる作品の中では比較的読みやすい部類に入ると思われる。伊藤さんも「説話文学は一話一話が短く、また比較的平易な表現が用いられているので、古文の初学者でも、一読すればだいたいの意味を取ることができます」(3ページ)と述べている。そのような説話文学の中でも読みやすいものである。

 逆に言えば、この説話集について新しい視角を提示することは難しいのではなかろうか。常識的な理解が行き渡ってしまっていると、新しい見解を示すのには勇気がいる。放送の初めに伊藤さんは『宇治拾遺』というとどんな説話を思い浮かべるか?と聴取者に語りかけていたが、これは聴取者がある程度の予備知識をもっていることが前提となっている問いかけである。伊藤さんがあげた3つの説話のうち、2つは確かに私も記憶している。桜の花が散っているのを見て泣いた稚児の話、タヌキ寝入りを決め込んで失敗した稚児の話である。しかし、伊藤さんがあげた話よりもわたしの記憶に残っているのは、こぶとり爺さんの話で、この他にも「藁しべ長者」や「雀のお宿」と関連する説話が収められていることも思いだした。説話は一方で近世以降の文学に影響を及ぼし、もう一方で民話や話芸の世界とも関連している。

 伊藤さんは読みやすい説話文学も「横に違う資料を置くと、見える世界ががらりと変わります」(3ページ)と続けている。「中世」は、説話文学以外にも、軍記物語や歴史物語など、独自の文学ジャンルが栄えた時代である。物語は「昔あった『事実』を物語ろう」とするものであり、「それらの事実は繰り返し思い出され、語り継がれる価値があり、だから記し残さねばならないのだ」(3ページ)として書きとめられたものである。だとすれば、他の説話集だけでなく、他のジャンルに収められた同種の話との比較を通じて、『宇治拾遺』を読み進む楽しみが増してくるはずであるというのであろう。

 そこでこの番組の本論は、『宇治拾遺』ではなく、『古事談』の中から『鳥獣戯画』の作者に擬せられてきた鳥羽僧正覚猷の臨終の際の説話から始められている。生前の奇行で知られる覚猷の遺言は「遺産相続は腕力で行うように」と遺言して亡くなったという。どうも僧侶らしからぬふるまいである。

 次に伊藤さんは『宇治拾遺』の中の頭の上に熟柿が落ちたのを、矢で射られて血が出たと錯覚して仲間に首をはねてもらったという法師の話を取り上げる。臆病ものが奇妙なところで大胆な行動に出るというこの物語の説く不思議とは別に、現代人の目から見ると「僧侶姿の者が、武装する仕事に就いている」(11ページ)ということに違和感がわく。ところが、説話集の編者はそのことに何の不自然も感じていない様子である。

 法師の武装ということに関連して、伊藤さんは晩年の落魄した清少納言をめぐる『古事談』の中の2つの説話を取り上げて、「法師」姿だと戦闘員だと思われて殺されそうになるという点に光を当て、「法師と武力の縁の深さ」(13ページ)を改めて強調している。平安時代後期から鎌倉時代の中期にかけての「院政期」は世の中の価値観が大きく変わり、それまでは表立って評価されなかった〈実力〉が新しい「実力」として評価されるようになった時代でもあった。その中で「実力」の持ち主として台頭してきたのが武士団と、とりわけその棟梁であり、僧兵と大寺社であったという。そして『古事談』の中から、比叡山の僧兵たちが三井寺を襲った際に比叡山の首脳部が手ぬるいと言って再度の襲撃を命じ、その中で三井寺側にいた源頼義の弟が命を捨てておもだった聖教類を救いだした逸話が取り上げられる。これも時代相の一つであった。

 という風に講義の概要を紹介してきて、いろいろと気付かされた点は多いし、院政時代のさまざまな個性の描写の面白さを改めて味わうことができた、とはいうものの、伊藤さんがこの講義を通じて何を論じようとしているのかが今ひとつ明らかになってこないという印象をもった。説話文学はある種の好奇心の産物であるとわたしは思っているのだが、この講義にはそのような編著者の視線についての目配りが不足しているように思われるのである。

 それでもどうやら、この時代、本来武力とは関係がないはずの僧侶たちがやたら力に訴える行動をする(現代人から見れば)矛盾と、それを当然のこととして眺めている同時代人たちの価値観が伊藤さんにとっては最大の問題らしい。そして「説話の中に時代が切り取られていたり、時代の中に説話が含みこまれていたりする場合があります」(16ページ)と説話文学の面白さについて指摘して一応の締めくくりとしている。まだ納得のいかない部分もあるのだが、次回以降でどのような説話が紹介され、解釈されて、その中でわたしのもやもやとした気分がどのように解消されるのか、説話の魅力がどのように語られていくのか、楽しみに待つとしよう。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR