essere di cattiva pasta

9月23日(月)曇り、時々晴れ/秋分

 水曜日夜の23:15からテレビ朝日で放送している『マツコ&有吉の怒り新党』の9月11日放送分だと思ったが、こんな話が出てきた。自分が何かカタカナ言葉を言うと、必ずもっと新しくかっこいい(と自分が思っている)言葉で言い直す友達がいて腹立たしい。「新しい」かどうかは別にして、相手が英語で言うと、ドイツ語で言い直したりする悪い癖というのはわたしにもあるので、気をつけようと思った次第。

 さて、その一例として出てきたのが、「わたし、スパゲティ―を食べたの」、「ああ、パスタね」。しかし、スパゲティ―をパスタと言い直すのが、より新しい、かっこいいいい方なのであろうか。もし、いった方も言われた方もそう思っているのであれば、少し考え直したほうがよい。パスタpastaというのはイタリア語で麺類の総称であって、スパゲッティは麺類の一種である。つまり、先ほどの会話を日本風にいいかえると、「ゆうべ、うどんを食べたのよ」、「ああ麺類なのね」というような意味になる。うどんを麺類と言い換えることは決して気のきいた、かっこいい日本語の会話にならないと思うのである。追い打ちをかけてパスタの種類を変えていうと、「ゆうべ、ペンネ・アラビアータを食べたのよ」、「ああ、パスタね」という会話のどこが気がきいているのであろうか。

 というようなことを言うのも、イタリア語の辞書を手に入れたからである。これまで外しまくっていたサッカーくじであるが、652回のミニトトAとBの両方を当てたのですっかり嬉しくなって、伊和辞典を買ったのである。今年になって買った一番高い本ということになる。わたしが買った辞書にはパスタの種類が絵入りで詳しく説明されている。日本ではマカロニというが、正しくはmaccheroni(マッケローニ)であるらしい(どこかの誰かを連想させられる)。表題に掲げたessere di cattiva pasta(まずいパスタでできている)というのは、「性格が悪い」という意味の慣用表現であるという。こういうところにパスタをもちだすのが面白い。

 さて、この件をめぐって思い出すのは、もう50年近く前に日本で上映されたミレーユ・ダルク主演のフランス映画『恋するガリア』(ジョルジュ・ロートネル監督)の一場面である(老人の話なので、話題が古くなることをご容赦いただきたい)。ミレーユ・ダルク扮するパリジェンヌのガリアが、ある日、投身自殺を図った中年女性を助ける。彼女は夫との仲を断ち切ろうとしているのだが、未練が残っているようである。ガリアは2人の本当の関係を探ろうと彼女の夫に近付くが、次第にその魅力に惹かれていく。
 
 それで、件の男性に近づいたガリアが彼のために食事を準備して「うどんがゆであがったわよ」というと、男の方が「うどんではない、麺といわなければならない」、「あ、そうか、あんたはイタリア人だったわね」というような場面があったと記憶する。『恋するガリア』はフランスでヒットした作品として日本に輸入されたのだが、白黒であったことも手伝ったのか、作品に魅力を感じる観客は少なかったようである。それでもこのやりとりだけはなぜか詳しく覚えている。フランス語でどういう会話であったのか、その当時はフランス語もイタリア語も勉強していなかったから、注意して聞いてはいなかった。しかし、フランス(イタリア)にうどんがあるというのも変な話であるとは思った。その頃はフランス料理はもちろんのこと、イタリア料理も高嶺の花で、学生が多少の知識をもつことができるような料理ではなかったのである。

 友達がスパゲティ―というのをパスタと訂正して優越感に浸るくらいならば、少し張り込んでイタリア料理の食べ歩きをして、もっとよくばってイタリアまで出かけて、パスタといわず、イタリア料理についてのもっと詳しい知識を蓄えるべきなのである。揚げ足取りをするのではなく、自分の経験に基づいてイタリア料理の地方性・多様性について蘊蓄を傾けるくらいではないと真の意味での尊敬を勝ち取ることはできないだろう。さらに言えば、その蘊蓄を口に出して優越感に浸るよりも、心の中で優位性を感じている方が奥ゆかしいと思うのだが、どうだろうか(と言って、わたしはそれほどの知識も経験もないのに、こうしてブログに書いているのであるが・・・)。
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