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『太平記』(315)

5月18日(月)曇り、雨が降りそうで、降らない。

 観応元年(南朝正平5年、西暦1350年)12月、足利直冬(尊氏の庶子で、直義の養子。直義の命で九州に赴き、勢力を拡大していた)討伐のために西国へ向かった尊氏は、都を脱出した直義が南朝と手を結んだことを知って、備前から引き返した。翌年正月、直義は、石清水八幡宮に陣を置き、それに呼応して、越中守護で足利一族の桃井直常(もものいただつね)が上洛した。尊氏の留守中、都を預かっていた足利義詮(尊氏の嫡子、直冬の弟)は形勢不利と見て、京を退いた。正月15日、尊氏と高師直は義詮と合流し、京一帯で直常軍と戦った。この時、師直の家臣の阿保忠実と桃井軍の秋山光政が四条河原で華やかな一騎打ちを演じ、人々が絵に描いてもてあそぶほどの評判となった。
 桃井との合戦に勝利したにもかかわらず、離反者が続出した将軍方は、丹波路を西へ落ち、義詮は丹波井原の石龕寺に留まった。石見の三角兼連の三角城を攻めていた高師泰(師直の弟)は、知らせを受けて京へ向かう途中、備中で上杉朝定の軍を破り、高師夏(師直の子)とともに、播磨の書写坂本で尊氏、師直の軍と合流した。

 『観応の擾乱』(中公新書)の中で亀田俊和さんが書いているが、尊氏が戦闘に勝ったにもかかわらず離反者が続出したのは、それまでの戦いの戦功に対する恩賞が少ないことに不満をもった武士が多かったことが影響しているようである。ところが、味方に加わるものが多かったにもかかわらず、直義が積極的に動こうとしていないことも気になるところである。

 さて、石清水八幡宮に陣を構える直義は、足利一族の石塔頼房を大将とし、愛曽伊賀守(三重県度会郡大紀町阿曽に住んだ武田一族の武士)、矢野遠江守(三重県一志郡矢野の武士)以下5千余騎を書写坂本の尊氏・師直攻略のために派遣したが、書写坂本には師泰が多数の軍勢を率いて合流したという情報を得て、播磨国光明寺(兵庫県加東市光明寺にある真言宗寺院)に陣をとり、八幡へ増援を要請した。

 尊氏の方ではこの情報を聞いて、増援の兵が光明寺に到着しないうちに、まずこれを攻め落としてしまえと考え、観応2年2月3日、書写坂本を出発し、1万余騎の兵で光明寺の四方を包囲した。石塔は城を固め、山に籠ったので、尊氏は曳尾(ひきお=引尾。光明寺の西、加西市方面への道)に陣をとり、師直は啼尾(なきお=鳴尾。小明時の北、西脇市方面への道)に陣を構えた。仏教の言葉で名詮自性(みょうせんじしょう、物の名はその本性を表わす)というが、尊氏も師直も実に縁起の悪い地名の場所に陣を構えたものである。

 2月4日に戦闘開始の儀礼である矢合わせ(双方が鏑矢を射合わす)が行われ、寄せ手は高倉の尾から攻め寄せたが、愛曽は仁王堂(寺の仁王門)の前で待ち構えて戦う。城内で守っていたのは命知らずの無頼の武士たちであり、この戦いが勝敗の分かれ目になると決死の覚悟を決めて戦いに臨んでいる。これに対して、寄せ手の方は名を知られ、大禄の大名たちがそろっていたが、味方が多数であることだけをあてにして、この戦いに勝って自分の未来を切り開こうなどという意気込みはまったくもってなかったから、いざ戦闘ということになると守る側の方が優勢になるのは当然のことであった。

 寄せ手に加わっていた赤松円心の三男の則祐は700余騎を率いていたが、遠くから城の様子をうかがって、「敵は無勢なりけるぞ。一攻め攻めて見よ」(第4分冊、408ページ)と下知を下した。そこで配下の浦上行景と五郎兵衛(ともに揖保郡浦上郷=たつの市に住んだ武士)、吉田盛清、長田資真(加古川市に住んだ武士)、菅野五郎左衛門(相生市に住んだ武士)らが急な啼尾の坂を攻め上って、城の垣のように並べた楯の下にまで到着した。この時に、他の道を包囲していた武士たちもこれに呼応して攻め上れば白を一気に攻め落とすことができたかも知れなかったのに、ほかの武士たちは何をしなくても、今晩か明日のうちには城内の武士たちは戦意をなくして落城するだろう、そんな城をむりに骨を折って攻めても何になるだろうと傍観していた。そのため、浦上以下の武士たちは掻楯の上から矢を射かけられて進むことができなくなり、もとの陣へと戻ったのであった。

 城内の兵たちは手合わせの合戦で寄せ手を退け、多少明るい気分になったとはいうものの、寄せ手は大軍であり、城内の防御の構えは十分に整っておらず、最後にはどんな結果が待ち構えているのかと、石塔頼房、それに備後から師泰軍に追われて逃げてきた上杉朝定らは安心できない様子であった。
 そんな時に、伊勢からやってきた愛曽の召し使っている童が神がかりをして、和が軍には二所大神宮(伊勢神宮の内宮と外宮)の神々がついており、この城の三本杉の上に鎮座されている。寄せ手がいかに大勢でも、この城が落城することはない。それだけではなく、高兄弟はその悪行の報いで七日以内に滅亡するだろうと言い、竜神が苦しめられている熱を冷ますと言って寺の中の閼伽井に飛び込んだところ、井戸の水が熱湯になるという出来事が起きた。城内のひとびとは、自分たちには神のご加護があると確信して、勇気を得たのである。

 この奇瑞の噂は寄せ手の赤松則祐のところにまで伝わってきて、どうもこの様子ではこの戦いははかばかしいことになりそうもないなと気にしはじめていた。そこへ、彼の兄範資の子で、則祐の猶子になっていた朝範が、兜を枕にして転寝をしていた時の夢で、寄せ手1万余騎が同時に掻楯の真下に攻め寄せ、同時に火をつけたところ、石清水八幡宮のある男山(京都府八幡市)、金峯山寺のある吉野の山々の方から数千羽の山鳩(鳩は八幡神の使いである)が飛んできて、翼を水に浸し、櫓、掻楯に燃えついた火を消してしまった。朝範はこの夢を則祐に語り、則祐は、これを聞いて、思っていた通りだ、この城を攻め落とすことは難しいのはなぜかと思っていたが、果たして神明のご加護があったのだ。これは事態が難しくなる前に、自分たちの本拠に帰った方がよさそうだなどと思い始めた。ちょうどそこへ、美作から敵が攻めてきて、一族の本拠地である赤松(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)に来襲したという情報が入ったので、則祐は光明寺の麓に構えていた陣を解いて、白旗城(赤穂郡上郡町の白旗山に城址がある。赤松氏の本城であったが、1441年に嘉吉の乱の際に落城した)へと帰っていった。

 赤松が本拠へ帰っていったことで戦いの様相はますます不透明になった。どうもやる気のなさそうな直義ではあるが、それでも石塔・上杉に援軍を送るくらいのことはするだろう。この先、何が起きるか、特に童子の予言のように師直・師泰兄弟が滅びるかどうか、気になるところではあるが、それはまた次回以降に。
 光明寺という寺は鎌倉をはじめ、あちこちにあるようであるが、ここに出てくる光明寺は播磨の真言宗の寺だということで、私の知り合いの1人がやはり兵庫県(播磨)の真言宗の寺の住職をしているので、気になって調べてみたところである。光明寺ではないが、やはり由緒ある名刹のようで、大学時代に勝手なことを言って揶揄ったりしてどうも済まないことをしたと反省しているところである。
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