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本郷和人/門井慶喜『日本を変えた八人の将軍』

5月15日(金)晴れたり曇ったり

 3月30日、本郷和人/門井慶喜『日本史を変えた八人の将軍』(祥伝社新書)を読み終える。中世政治史の専門家で東京大学史料編纂所の教授である本郷和人さんと、推理小説を書く一方で歴史小説も手掛け、『銀河鉄道の父』で直木賞を受賞した門井慶喜さんによる歴史対話。坂上田村麻呂、源頼朝、足利尊氏、足利義満、徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜、西郷隆盛という8人の将軍と、将軍にならなかった2人の英傑=織田信長、豊臣秀吉を取り上げ、対談者2人のそれぞれの知識と想像力を傾け、最前線の研究成果から楽屋話まで出て縦横に語っている。
 面白くない訳がない書物であるが、ブログで取り上げることは遠慮してきた。日本史をめぐる啓蒙活動に尽力するという志はわからないわけではないが、本郷さんは少し本を書きすぎている(門井さんも同様)という印象があるので、自重を促したい気分もあるからである。

 この書物の「はじめに」で門井さんはこんなことを書いている。(推理作家であり、歴史にも豊かな知見をもっていたという点で、門井さんの先輩筋の)松本清張が、歴史学者(日本史学者)には読ませるような文章を書く人がいないと言っていたが、最近では小和田哲男さんをはじめ、専門研究家としても、啓蒙的な解説書の書き手としても、一流の書き手であるような歴史学者が見られるようになった。そしてそのような人物の代表的な存在が、本郷さんであるという。そして、その本郷さんと語る機会を得たのは、じつに楽しい経験であったと記す。

 文学(あるいは文章)と歴史とをどのように関連付けて考えるかというのは難しい問題である。夏目漱石は『文学論』の「序」において、「余は少時好んで漢籍を学びたり。これを学ぶ事短きにも関らず、文学はかくの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり」(岩波文庫版、上巻、18ページ)と書いている。「左」は『左伝』(『春秋左氏伝』)、「国」は『国語』、「史」は『史記』、「漢」は『漢書』のことで、それぞれ中国の歴史書である。
 よく言われることであるが、歴史は過去の戦いの勝者の記録であり、文学にはその戦いの敗者の気持ちが述べられているものが多い。だから、漱石が中国の歴史書を読んで、文学についての漠然とした定義を感じ取ったというのはどういうことか、考えてみる必要がある。
 漱石は彼が漠然と考えていた「文学」と、英国で言われている<文学>の違いに苦しんだというのだが、彼の留学先であった英国には、『ローマ帝国衰亡史』を書いたギボンとか、「イングランド史」を書いたマコーリーのように、歴史家であり名文家といわれた人がいるし、サッカリーのような歴史小説の名手もいた。考えるべきことはますます、たくさんあるのである。

序 将軍とは何か
 地位か人か
 ここでは「地位」と「人」をめぐる日本的な伝統を踏まえて「将軍」の性格が論じられる。ヨーロッパでは国王が生前退位することはごく普通に行われており〔2013年にオランダのベアトリクス女王がウィレム・アレクサンダーに、ベルギーのアルベールⅡ世がフィリップに、2014年にスペイン国王ファン・カルロスⅠ世がフェリペⅥ世に譲位している〕が、それぞれ退位後は普通の人になる。ところが、日本では歴史的に天皇が退位すると上皇となり、天皇以上の権力をふるうことが少なくなかった。
 門井さんは、将軍についても同じことで、足利義満や徳川家康はその職を退いても「大御所」として権力をふるった、平清盛も〔豊臣秀吉も〕将軍にはならなかったが、同じように職を退いてからも権力を維持したという。「将軍という地位に価値がないわけでは」ないが「人間に箔をつける装置」(17ページ)だったのではないかといい、本郷さんもその認識で間違っていない、少なくとも初期においてはそうだったのではないかと同意している。

 将軍は征夷大将軍だけではない
 前項の門井さんの発言に続ける形で、本郷さんは将軍は征夷大将軍だけではない、鎮東将軍、征西将軍など、いろいろある〔なぜか鎮守府将軍を取り上げていない〕、「実はその地位に実態があるわけではない、むしろ、その人物の実力を表わすために名称をつけている節があ」(17ページ)るという。
 門井さんは、源頼朝が征夷大将軍と右近衛大将に任じられているが、征夷大将軍の方が上位の地位かと尋ねたのに対し、本郷さんは、どちらが上位とは言えないと答える。近衛大将は常置の職であるが、征夷大将軍はそうではない。大将は大納言のうち2人が兼ねる職で、大臣に欠員ができた場合、大臣に昇任するという重要な地位である。征夷大将軍は別立ての職と考えるほうがいいという。門井さんは、とすると、貴族の側では近衛大将の方が上位だと考えただろうと納得する。
 平清盛は太政大臣になったが、(源頼朝は征夷大将軍と近衛大将)、足利尊氏と義詮は大納言で征夷大将軍、頼朝はなろうと思えば大臣になれたけれども、なろうとしなかったのではないかというのが本郷さんの推測である。これを受けて、門井さんが大臣をとったのが清盛、将軍をとったのが頼朝、尊氏、義詮、それに対し大臣と将軍という両方をとったのが義詮の子の義満という分類ができるという。

 言葉の意味から探る
 「将軍」の「将」は、「ひきいる」、「もちいる」という意味であるが、同じ意味の語として「帥」もある。中国では「将」も「帥」も同じくらいに使われているが、日本では「将」の方が圧倒的に多い。これは「将」が「勝」に通じると受け取られたからである。武家政治を否定した明治維新後は、「帥」を使い、天皇を「大元帥」とした。
 国土の広い中国では、将軍にもさまざまな格があり、それが重要な意味をもったが、日本では地位より人が優先されるので、そんな名称の格式にこだわる必要がなかった。
 最初に征夷大将軍になった坂上田村麻呂の場合は、まさに「将軍」であり、日露戦争の乃木将軍と同じように軍を率いて敵を倒すというイメージで考えていい存在であった。それが、源頼朝に始まる将軍との違いであった。

 将軍の権限
 坂上田村麻呂が征夷大将軍として東北に遠征した際に、蝦夷の軍事指導者アテルイ(阿弖流為)を捕虜として連れてくる。田村麻呂は朝廷に彼の助命を願い出るが、聞き入れられずにアテルイは処刑される。軍事常識として、処刑するにしても、助命するにしてもわざわざ都に連れてくる必要はない。それなのに連れてきたのは、田村麻呂にはそれだけの権限が与えられていなかったのではないかと門井さんが問う。
 7世紀の後半、天武天皇の時代に日本全国に「国」が置かれた。その後、都の東側に北陸道の愛発関(あらちのせき、越前、現在の敦賀市内にあったと考えられている)、東山道の不破関(美濃、現在の岐阜県関ケ原町にあったことが確認されている)、東海道の鈴鹿関(伊勢、現在の三重県亀山市内か)が置かれた。ということは、そこから東(関東)は中央政府の支配の及ばない、未開の地と考えられていたということである。そういう場所に遠征するのだから、指揮官の権限等も詳しく定められていなかったと考えるべきであると本郷さんは答えている。

 将軍に求められたもの
 将軍は多数の兵士を率いて軍事行動をとり、勝利を収めなければならない。兵士たちの規律を守り、かれらが脱走するのを防がなければならない。兵士たちの先頭に立って戦う必要はないが、かといって後ろで兵士たちの戦いぶりを眺めているだけでもいけない。「将軍には何よりも、兵士たちを戦う気にさせる、かれらの士気を上げることが求められた」(25ページ)と本郷さんは言う。

 幕府とは何か
 将軍の居所を「幕府」とよぶが、これはどういう言葉なのかと門井さんが問う。
 鎌倉幕府の御家人たち、あるいは江戸幕府の幕閣にとって、「幕府」は聞きなれない言葉であった。江戸時代の幕閣であれば、「柳営」という言葉を使ったであろうと本郷さんが答える。〔余計な話だが、徳川幕府の幕臣で構成する「柳営会」という親睦団体がある。小和田哲男さんがゲストとして出かけたところ、三河譜代ではなくて、もともと今川、武田の家臣だったという人の子孫が多かったので驚いたと、そのブログに書かれている。〕
 「幕府」は明治時代に学者たちが考えた学術用語だという。この言葉はもともと中国で、将軍が出征中に幕を張って軍務を執り行った陣営のことを呼ぶものであった。この場合、皇帝に伺いをたてなくても、一切を自分で決裁することができた。明治時代の学者はこの例を想起して、「幕府」という言葉を使ったのだろうと本郷さんは言う。

 門井さんの次の発言が面白いので全文引用する:
 「確かに、江戸時代の史料に眼を通していて、幕府という言葉は見たことがありません。「公儀」という言葉はけっこう出てきます。公儀は江戸幕府を指す固有名詞のようになりましたが、もともとは普通名詞でオフィスぐらいの意味ですね。
 幕府という語は、言葉としては矛盾を孕んでいます。本郷さんが述べたように、幕府の「幕」はいわゆる陣幕を指します。そして統率機能を持ち、移動性が高いという特徴があります。いっぽう、幕府の「府」は役所ですから、固定されて移動性がない。この矛盾した語がピタッとくっついているところにおもしろさがあると同時に、日本史における幕府の本質と変遷を表わしているように思います」(27ページ)。

 このあと、本郷さんが自著『承久の乱』(文春新書)とほぼ同時期に出版された、坂井孝一『承久の乱』(中公新書)が「後鳥羽上皇には幕府を倒す意思がなく、義時あるいは北条一族を倒すことを命じた」(28ページ)と論じていることについて文句を言っているが、これは本筋とは別に議論されるべき問題であろう。

 「序」で将軍とか、幕府とかいう言葉についての理解を整理したので、次回は第1章「坂上田村麻呂――すべてはここから始まった」に入る。すでに述べたように、同じ征夷大将軍でも田村麻呂の場合と、源頼朝の場合ではその性格はかなり違っている。その違いを明らかにするためにも、田村麻呂についてもっと詳しく知ることは必要であろう。 

 もう50年くらい昔になるが、大学の図書館で中国の歴史書(の和訳)に読みふけっていたことがあり、その時、『後漢書』の中に大樹将軍(馮異)とか、伏波将軍(後漢の水軍の将軍であるが、特に馬援を指す)とか、跋扈将軍(梁冀)とか、やたら「将軍」という言葉が出てきたことを思い出す。  
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