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黒田俊雄『王法と仏法 中世史の構図』

5月14日(木)晴れたり曇ったり

 今年3月に法蔵館文庫の1冊として刊行されたこの書物は、黒田俊雄(1926‐93)が1983年にまとめた論文集の増補新版(2001)に基づくものであり、実はまだ読み終えていないのだが、2001年版は読み終えたはずであり、著者による『太平記』論など見逃しがたい内容が含まれているので、改めて読み進めながら論評していくことにする。

 全体は4部に分けられ、13編の論文が収められている。それぞれの表題を紹介すると、次のようなものである:
  Ⅰ
顕密体制論の立場――中世思想史研究の一視点
王法と仏法
愚管抄における政治と歴史認識
日本宗教史上の「神道」
  Ⅱ
「院政期」の表象
軍記物語と武士団
太平記の人間形象
  Ⅲ
楠木正成の死
歴史への悪党の登場
変革期の意識と思想
中世における武勇と安穏
  Ⅳ
「中世」の意味――社会構成史的考察を中心に
思想史の方法――研究史から何を学ぶか

 それでは巻頭の論文である「顕密体制論の立場――中世思想史研究の一視点」から見ていくことにしよう。黒田は、1975年に発表された『日本中世の国家と宗教』のなかの論文「中世における顕密体制の展開」において、彼自身も含めてそれまでの中世史研究を支配していた武士中心主義、鎌倉仏教重視の考え方に異論を唱え、武士だけでなく公家や寺社の活動についても重視すべきこと、また天台・真言や南都の諸宗からなる顕密仏教こそが中世において支配的な仏教であったことを強調した。これには当然、異論や反論が寄せられ、それらの論評に対してこたえていくものとして、改めて書かれたのがこの論稿である。1977年に刊行された『現実のなかの歴史学』に収められたものであり、『王法と仏法』の1983年には収められていなかったが、黒田の死後、2001年の増補新版で付け加えられた。黒田の業績の特徴を理解するために、最も適した論文であると編集者が判断したためであろう。

 黒田は自説が思想史研究において従来見逃されてきた視点から中世の思想状況を見直すべく問題提起を行うものであるという。そして、宗教思想が中世思想のすべてではないとはいうものの、中世の日本において仏教と儒教〔儒教が宗教であるとする意見に対し疑問がないわけではない〕以外には体系化された思想がなかったことも無視すべきではないと主張する。そして中世の日本の社会と思想を見ていくうえで、宗教を中心に考えていくことは有効な方法であると論じるのである。

  1 中世顕密仏教研究の意味
 高校の『日本史』や『倫理』の授業を思い出してみればわかることであるが、中世日本の仏教は法然・親鸞・道元・日蓮らの新宗教を中心として論じられ、「顕密仏教は中世思想史ではむしろその旧時代性について指摘されるのが常である」(11ページ)。〔旧仏教の僧侶で言及されるのは明恵くらいであろうか。〕

 しかしながら、中世では顕密仏教こそが時代を通じて宗教の世界における支配的地位を保持していたことは疑いのないことであると黒田は指摘する。「鎌倉時代に新仏教が起こって宗教が一変したようにいうのはある程度は当たっているが、『旧仏教』なる顕密仏教の影が薄れたかのような理解があるとすれば、それは一面的に単純化され定式化された教科書によって普及された虚像でしかない。」(11‐12ページ) 
 黒田は、この時代の史料の多くが公武支配層や顕密仏教の僧侶によって残されたものであるという事実を指摘し、だから彼らに有利な記録が多いことは否定できないが、人々の生活の大半を支配していたのがこれらの人々の影響力であったことも確かだと論じている。思いだしていいのは、呉座勇一さんの『応仁の乱』が同時代の興福寺の高僧の日記を史料として書かれていることである。興福寺が顕密仏教の寺院であることは言うまでもない。また細川重男さんの『執権』には、「出家」と「遁世」は中世では意味が違っていて、「出家」というのは顕密仏教の僧侶になること、「遁世」は新仏教の教団の構成員になることであると記されていた〔つまり、佐々木四郎高綱は「出家」し、熊谷次郎直実は「遁世」したということである〕。

 また、顕密仏教は国家権力と緊密に結びつき、というよりもその一翼を形成するものですらあった。この後、この書物に登場する『愚管抄』の著者慈円は何度も天台座主になった高僧であるが、関白にもなった九条兼実の弟である。また『太平記』を読めばわかるが、持明院統と大覚寺統の両方の皇統がそれぞれ自分たちの陣営から法親王を送り込んで、天台座主に就任させていたこともこのことを裏書きするものである。
 したがって顕密仏教の内容と性格を明らかにすることは、中世の国家の特質とその支配イデオロギーを知るうえで不可欠であり、顕密仏教についての理解なしには公武支配層の思想を理解することは難しい。新仏教の祖師たちの教説はこの点をめぐってはほとんど必要ない(黒田は「禅宗を除いては」と書いているが、禅宗でも夢窓疎石のように権力と結びついた僧もいるし、道元のように権力や金持ちに近づいてはならないといった僧もいる)。

 顕密仏教の教理は精巧で難解なものであり、当時の民衆の生活とは無縁なものであるという議論もある。また思想史は民衆の思想史でなければならないという主張もある。しかし、当時の民衆の思考や論理だけを辿ろうとしても、わかることは少ない。「民衆にとっての思想史の真実は、むしろその上におおいかぶさっていた壮大な思想体系の重圧とのたたかいであったはずである」(13ページ)。その戦いの過程の全容を理解することなしに、中世の思想史を理解することはできないと黒田は考えている。

 顕密仏教の中世宗教史における中心的な役割を認めないのは、新仏教系の思想にこそ「中世的なもの」が典型的に見られるという判断があるからであろう。たしかに、新仏教系に「中世的なもの」が見られることは認められるが、同時代の顕密仏教がなおも「古代的」であったという論証はなされてきただろうか、また「中世的なもの」の発現を新仏教系の枠内にのみ留める論拠はどこにあるのだろうかと黒田は問う。

 顕密仏教体制が中世においてきわめて重要な支配的地位を占めていた事実を無視して、中世思想史を研究することはできないというのがこの書物の出発点である。

 今回は、最初の論文のそのまた最初の部分しか紹介できなかったが、次回以降できるだけ速度を上げて内容の紹介と論評に取り組んでいきたいと思う。 次回は、そもそも「顕密」というのはどういうことかをはじめ、より具体的な内容に入っていく。
  
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