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『太平記』(308)

3月30日(月)曇り

 貞和6年(南朝正平5年、西暦1350年)2月、改元して観応となった。足利直義の失脚後、尊氏の嫡男義詮が鎌倉から上洛して政務をとることになったが、その背後にいたのは高師直・師泰兄弟だった。〔義詮と入れ違いに、彼の同母弟基氏が鎌倉に下るが、そのことに『太平記』は触れていない。〕 前年の9月に、備後から九州に落ちた足利直冬(尊氏の庶子、義詮の異母兄で、直義の養子になっていた)は、肥後の川尻幸俊の加勢を受け、また筑前の少弐頼尚の婿に迎えられ(歴史的な事実であるかどうか不明)、天下は宮方、将軍方、西国の直冬方という三分の形勢となった。石見(現在の島根県の西部)では、直冬に呼応して三角兼連(みすみ・かねつら)が挙兵した。高師泰が石見へ下り、まず三角方の佐波(さわ)善四郎の籠もる鼓崎(つづみがさき)城を攻めた。

 江の川の激流を前に、将軍方の軍は渡河をためらったが、毛利小太郎(師親、後に元春と改名、戦国大名毛利氏の先祖)らが馬筏を組んで渡河に成功、川岸で守りを固めていた佐波の軍勢を打ち破った。
 寄せ手は、いよいよ勢いに任せて、鼓崎城を攻め落とそうとするが、鼓崎に加えて、すぐ近くの青杉城、丸屋城からも城門を開いて、同時に打って出て、前後左右から将軍方の軍勢を取り囲んで、盛んに矢を射かける。毛利、高橋(高梁)、三善(三次)の100騎ほどの軍勢は、これに痛手を負い、さらに城から落とされてくる石に行く手を阻まれて、苦戦に陥っているのを見て、大将の師泰は、「三善を戦死させるな、続け」と、命令を下す。そこで、高一族の山口七郎右衛門(遠江の山口郷=現在の静岡県湖西市山口)、赤旗・小旗・大旗の一揆の1,000余騎の兵が一せいに刀を抜いて、攻め寄せる。

 新たに加わってきた多数の軍勢に攻め立てられ、佐波の軍勢は皆自分たちがもといた城に逃げ帰ってしまった。そこで寄せ手は城を囲む逆茂木(棘のある木の枝で作った防御の柵)のところまで攻め寄せ、楯を垣根のように並べて身を守りながら包囲した。初戦には勝利して敵を城内に追い込んだが、城の守りは堅固で、切り立った崖の上にあり、攻め込む手だてもなく、攻め落とすことは難しい。攻めあぐねた将軍方の軍勢は、方策もないままに城柵を囲んで盾で身を守りながら、城内の軍勢との矢軍(矢戦)で時を過ごしていた。

 ある時、寄せ手の中に三文字(みつもんじ)一揆{「三」の文字を旗印とした一揆(心を一つにして行動することであるが、そのような盟約を結んだ武士集団である)}の中に、日ごろから武勇で知られた武士が3,4人で集まって話し合ったことには、「城の構えを見ていると、今のような攻め方をしていると、城内の兵は兵糧が不足して持ちこたえられなくなることがあるかも知れないが、それでもこちらの軍勢に負けて落城するということはありそうもない。さらに、備中、備後、安芸、周防の間にも、内心では直冬に心を寄せる武士たちが多いと聞いているので、こうして我々が城を包囲しているうしろから攻めかかってくるものが出ないとも限らない。前方のある数か所(ここでは3か所)の城を1か所も落とすことなく、後から敵が攻めてきて道をふさぐということになると、こちらがどのように勇猛であろうと、ながく持ちこたえることはできないだろう。事態が困難になるまえに、この城に夜襲を掛け、落城させて中国地方の敵の士気をくじき、宰相中将殿(足利義詮)を元気づけようではないか」との結論に達する。

 この意見は大将である師泰の同意を得て、夜襲に加わる武勇に優れた武士たちを選び抜こうということになる。高一族の山口七郎右衛門と同族の山口新左衛門尉のような武士もいたが、大半は中国地方の中小武士たちで、源平合戦で活躍した熊谷次郎直実の子孫である(安芸熊谷氏の)熊井五郎左衛門尉のほか、足立、松田、後藤、城所、金子、村上、神田、赤木、安芸、田久、織田、奴可、小原、井上、瓜生、富田、大庭、山田、甕、那河といった27人が選りすぐられた。
 この27人は、それぞれ武勇に秀で、才覚のある、また夜襲になれたも武士たちであったが、数千人(これは誇張)が立てこもって厳しく警戒を固めている城を落すほどの力をもっているとは思われなかった。

 8月25日の夜、夜襲のために選抜された武士たちは筒(とう=炭を竹筒に入れて火をつけたもの)を目印として、鼓崎城の裏山を匍匐前進、薄、刈茅、篠竹などのそのあたりの植物を切り取って鎧兜に隙間なく差し込んで自分たちの身を隠し、城の周囲の切り立った崖の下の岩かげに潜んで襲撃の機会をうかがう。
 ところが枯草の中で寝ていたイノシシや、朽ちた木の空洞の中で眠っていたクマが人間の気配に気づいて驚き逃げ出した。そして2,30頭の群れをなしてがさごそと音を立てながら逃げていった。

 物音を聞きつけた城内の兵たちは、さては夜襲かと武装して各所のやぐらに集まり、塀から松明を何本も投げて息を殺して様子をうかがっていたが、何者かが「夜討ちではなくて、後の山からクマが逃げていったのだ。捕まえよ、殿原」と叫んだ。城内の武士たちは〔よせばいいのに〕、我先にクマを射止めようと弓矢を手にしてクマ ちのあとを追いかける。こうして300余騎の武士たちが、城から出て麓まで下って行ってしまったので、城内に残るのは50騎ほどになってしまった。

 夜が明けて、城の木戸は開いたままである。こうなったら躊躇することはない。27騎は一斉に抜刀し、鬨の声を上げて城内に乱入した。城主である佐波善四郎とその郎等3人は、腹巻(はらに幕略式の鎧)をとって肩に投げかけ、一の関口(きどぐち)まで降りて一歩も退くことなしに戦ったが、善四郎は膝がしらを切られて四つん這いの姿になってしまったので、郎等3人がその前に立ちふさがって、時間を稼いだが、とうとう討死する。その間に、佐波善四郎は自分の陣屋に走り入り、火を放って逃げた。そのほか、40余人の兵が残っていたが、一防ぎも防がずに青杉の城へ落ちていった。

 クマ狩に出かけて行った兵たちは、そのままクマを追いかけることもせず、もといた城にも戻らず、ちりぢりになって落ちていった。防御の要であった鼓崎の城を落されただけでなく、善四郎は逃げる初めに討ち取られてしまったので、残る2つの城も、その後11日ばかりで落城してしまった。むかしの兵法の本に「兵が野に潜んでいる時は、飛ぶ雁の列が乱れる」と書いてあったのを知らなかったので、クマのために城を落すことになったと世の中の笑いものになった。

 その後、師泰は石見の武士たちを従えて、国内の敵を打ち従えようとしたが、攻められて逃げられなくなると思ったのであろうか、石見の国中に32か所あった城の軍勢は、皆噂を聞いただけで逃げ出してしまい、今はただ三角入道の籠もっている三角城だけが残った。この城は、険しい山の中につくられ、城内の警戒も厳重であったので、兵力を恃んで強引に攻めることは難しかったが、援軍が近くからやって来るということもなく、三角が支配する領地もその近くにあるというわけではなく、どこまで持ちこたえることができるのかわからないという状況であった。寄せ手の方は城を囲む四方の山々に向かい城を築き、2年でも3年でもかけて攻め落とすという姿勢を見せたので、城中の兵は気勢が衰えて、しだいにたよりない気持ちになっていった。

 こうして中国地方における反将軍の動きは抑えられたが、九州で新たな動きが始まる。それはまた次回に。「兵が野に潜んでいる時は…」というのは、岩波文庫版の脚注によると、『孫子』に「鳥起(た)てば伏せるなり。獣驚けば覆ふなり」(行軍編)という個所があるのを踏まえたものだという。『古今著聞集』巻9に、大江匡房が源義家に向かい、「軍野に伏す時は飛鴈つらをやぶる」と教え、義家がその言葉を覚えていて敵の伏兵に気づいてこれを破ったという説話が出てくる由である。この義家の話は、子どものころに何かの本で読んで知っていたが、出典が『古今著聞集』であったとは今の今まで知らなかった。そんなものである。
 クマを追いかけることに気をとられて、落城のきっかけを作ったというのはいかにも間抜けであるが、『太平記』にはこれまでもこの種の間抜けな話が出てきて、武勇だの忠義だのという武士の価値観を相対化しているようにみえる。確かに『太平記』には一方ではそういう価値観を賛美する箇所もあるのだが、他方で懐疑的になったり、相対化している。そういう部分にこそ『太平記』の魅力があるのではないかと私は思う。 
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