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梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(15)

3月26日(木)晴れ

 1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけて梅棹忠夫(1920‐2010)は当時彼が所属していた大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジア諸国を訪問し、熱帯における動植物の生態と、人々の生活誌を調査した。この旅行記はその際の、彼の個人的な記録をまとめたものであり、下巻で彼は主としてカンボジア、(南)ベトナム、ラオス3カ国の旅行の際の見聞を記している。
 1958年2月12日、梅棹は隊員の吉川公雄(昆虫学者で医師)とともにバンコクを出発した。外務省留学生の石井米雄(1928‐2010、後に東南アジア研究家として京都大学・上智大学教授、神田外語大学学長)が通訳として随行、13日にカンボジアに入国し、バッタンバン、プノムペン、海岸の都市カムポットを訪問し、トン・レ・サップ湖の周辺を踏査した。2月21日にはプノムペンを出発して、ベトナムに入国、当時の南ベトナムの首都であったサイゴンに到着した。サイゴンではベトナムの民族宗教の1つであるカオダイ教の本部(タイ・ニン)を訪問したり、コーチシナにおける華僑の進出と開拓の歴史をたどったりした。
 2月28日にサイゴンを出発して北上、このときからサイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックが通訳として参加。海岸の町ファン・ランに到着したあたりから、ベトナム族と激しい対立・抗争を続けた歴史を持つチャム(パ)の遺跡に何度も遭遇することになる。北上を続けて、ニャチャンを経て、3月2日にトゥイ・ホア(綏和)に到着した。

 ゴ総統万歳!
 3月3日にトゥイ・ホアを出発。トゥイ・ホアは地図で見たところでは小さな町であるが、実際には大きく、新興都市という感じであると梅棹は観察した。これに対して農村は日本のいなかに似ているというのが彼の感想である。とりいれの季節で、脱穀作業をしているのが見える。タイやカンボジアでは二輪車を使って収穫物を運ぶのだが、ここでは全部人力で運んでいる。
 「小さな峠を越え、川をいくつも渡る。川は、橋がない。渡し船で渡るのである。海が見える。景色は美しい。」(132ページ)
 途中の海中に軍艦が沈んでいるのを見かける。かなり古いもののようで、ディックによると日露戦争の時のロシアの軍艦だというが、真偽のほどは定かではない。「いずれにせよ、戦争のあとを見るのは、いたましいものである。」(132ページ) この発言は戦争体験のある梅棹らしいものだと言えよう(戦争中、梅棹は戦車隊の小隊長として軍務につくはずだった=司馬遼太郎と同僚になるはずだったが、免除されてモンゴルに渡ったという経歴の持ち主である)。

 通りすぎる村の様子は平和だが、あちこちに煉瓦づみのツイタテのようなものがあって、そこに「ベトナム共和国万歳!」とか、「ゴ総統万歳!」というような標語が書かれている。戦時中の日本の標語政治を思い出して、梅棹は空しさを感じるのだが、南ベトナムの政府としてはやはり必要を感じているのだろうと気を取り直す。

 ベトナム料理
 この日の2時半、クイニョン(歸仁)に到着する。クイニョンは小ざっぱりした、いい町であるという感想を梅棹は述べている。しかし、この町はインドシナ戦争で破壊され、その後復興したのだという。〔クイニョンを省都とするビンディン省は、かつてはチャムパ王国の首都であったことがある。現在のクイニョン市は人口50万人近くなっており、小ざっぱりした街だという感想があてはまるかどうかは疑問である。〕

 クイニョンの町の男子は兵隊として強いという評判があり、女子は賢くてしっかりしているという。町を一通り走って、満足できそうな料理店を見つけて昼食をとる。
 梅棹はベトナム料理が好きだという。中国料理ほど油こくないし、良質の魚醤を使えば大変においしいという。〔私は渋谷にあるベトナム料理店で一度か二度、ベトナム料理を食べただけだから、この感想については何とも言えない。〕
 ディックの言うところだと、ベトナムでは人生の理想として「日本人の妻、フランス風の家、そしてベトナム料理」と言われているそうだ。似たような言葉は、あちこちで聞かれるが、国がちがっていたような気がすると梅棹は記す。
 同じような国民性を示す小話で、こんなのもあるそうである。ある学校で中国人と日本人とベトナム人が一緒に勉強をした。成績は中国人が「算数」で、日本人が「科学」で、ベトナム人は「文学」でトップをとったという。ベトナム人が、自分たち、それから中国人や日本人についてそういうことを考えているというのが興味深いと梅棹は記す。〔読者の皆様も、私同様に、異論を唱えたいところだと思うが、それはご自分でご自由におっしゃってください。〕

 ベトナムの国民性
 食事をしながら石井が、ベトナム人はえらいものだと賞賛の言葉を口にする。梅棹も同感である。タイやカンボジアでは食堂は皆中国人の経営である。ところがベトナムではベトナム人がベトナム料理の店を出している。旅館にしても経営者はベトナム人である。東南アジアのほかの国では、経済を中国系の人々に握られている例が大半であるのに対し、ベトナムではベトナム人が商業の主導権を握っている。一行が見たところでは、ベトナム人はきわめて勤勉である。現在のところは南北の分断が、国民のエネルギーを吸い取っているが、もし、南北が統一されれば、南の農産物、北の鉱産資源、それに水力、石炭などにもめぐまれたベトナムは大いに発展するだろうと、一行は思ったのである。

 風俗ノート
 クイニョンの周辺は昔のチャムパ王国の中心地であったので、多くの遺跡が残っている。どれがどれだかわからないほどである。
 生産力が高いらしく、村が多く、人口も稠密である。一行は雨に出会う。これまで雨に会うことが少なかったので、気持が一新する。北からの避難民であるディックによると、このあたりはトンキン・デルタと同様、一年中雨季なのだという。
 この一帯では男女を問わず、腰まで切れ上がった長い上衣とゆったりしたズボンからなるアンナン服を着ている。男女ともに同じ笠をかぶっているから、ちょっと見ただけでは見分けがつかない。
 農民は襟なしの短いシャツを着て、前のまんなかで合わせてきちんとボタンで留めている。ズボンは緩やかで足首の上の辺りまである。この労働服がまた男女同一である。こういう例はあまりよそでは見かけられないと梅棹は言う。頭に被っているのは菅笠が多いが、男性の中には昔のアンナン帽(幅の狭い角帯をターバン風に巻き付けたようなもの)を被っている人も見られる。
 タイではどんな田舎に行ってもパーマ屋があったが、ベトナムの女性はほとんどパーマをかけず、長い髪のはしを切りそろえて、さらりととき流している。
 若い女性は伝統的な衣装に固執しているが、男性の方はズボンにカッター・シャツという姿が多い。またヘルメットがはやっていて、小学生はほとんどヘルメットをかぶっている。

 まだ北への旅は続くが、ここで第15章は終わり、次回から第16章「大官道路」に入る。「大官道路」(Mandarin Road)はアンナン帝国の官吏たちが駕籠に乗って旅行するために設けられた道路である。そして第16章の最後のところで、ディックと別れた梅棹たちはラオスに入国する。 
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