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『太平記』(307)

3月23日(月)小雨が降ったりやんだり、肌寒い。

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1348年)2月、清水寺が炎上、6月11日には四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死傷者が出たが、それらは天狗の仕業であると噂された。足利直義は信頼する僧侶の妙吉侍者や側近の上杉重能、畠山直宗らの言葉を信じて、将軍の執事である高師直の謀殺を企てたが失敗し、逆に師直・師泰兄弟をはじめとする大名たちの「御所巻」に会い、出家して錦小路堀川に蟄居の身となった。上杉・畠山は越前に流罪となり、配所の江守庄で討たれた。
 事変に先立って羽黒山伏の雲景は、愛宕山の天狗太郎坊から直義と高兄弟の間で抗争が起きるという予言を受け未来記を記していた。その頃、天に電光が走るなどの怪異があった。

 今回から第28巻に入る(『太平記』は全体で40巻からなるが、古本系の写本では第22巻が欠けている)。全体の3分の2を読み終えたことになる。足利直義と高師直の争いが、尊氏と直義との間の争乱=観応の擾乱に発展していく。
 6月の四条河原の出来事は、第27巻の「田楽の事」では天狗の仕業として描かれているが、「雲景未来記の事」に登場する天狗太郎坊は、天狗の仕業だといううわさを否定している。妙吉侍者(同時代史料で確認できる実在の人物である)は事変後、逐電して行方不明となるが、太郎坊は、天狗の一味であると語っている。作者が物語の前後のつじつまを合わせている部分と、そうでない部分があるのはどういうことであろうか。

 貞和6年2月27日に、改元が行われ、年号は観応となった。前年の8月に高師直・師泰兄弟を首謀者とする一種のクーデター=御所巻が起きて、それまで政治の実権を握っていた三条殿=直義が失脚した。そしてそれまで鎌倉にいた尊氏の嫡子・義詮が上京して天下の政治をとることとなった。〔入れ替わりに、義詮の弟の基氏が、まだこの時点では元服していなかったのだが、鎌倉に向かうことになるが、そのことを『太平記』の作者は書いていない。〕 しかし、義詮の陰で、師直・師泰兄弟が実権を握り、政権を動かしていることは明らかであった。

 さて、その義詮・基氏兄弟の異母兄である足利直冬は、貞和4年に直義によって中国地方の探題として備後に派遣されていたが、貞和5年9月、師直の命を受けた武士たちの攻撃を受けて、備後を脱出、肥後の川尻幸俊のもとに身を寄せていた。九州の武士たちにも、直冬を討ち取るべしという将軍の御教書が届けられていたが、これは将軍の本意ではあるまい、師直が勝手に出した命令であろうと推し量るものが多く、後の禍を避けるために、だれも直冬を攻撃しようとする者はいなかった。
 そんな時に、何を思ったのであろうか、九州の有力な豪族の1人である少弐頼尚が、この直冬を婿にとった〔岩波文庫版の脚注によると、これが史実かどうかは不明だそうである〕。そして、その居館に直冬を住まわせたので、その催促(軍勢の招集)に従う者が、九州以外からも現れるほどの勢いとなった。
 これによって、天下は宮方、将軍方、直冬方に三分され、争乱は止まず、ますますその行方は混沌としてきた。あたかも中国で後漢の滅亡後、魏・呉・蜀の3国が鼎立したのを想起させるような様子である。

 中国地方では、石見の国の武士三角(三隅)兼連が直冬の呼びかけに呼応して国内で勢力を伸ばし、幕府に反抗する姿勢を見せているという情報が入り、反乱が大規模なものになる前に鎮圧しようと、高師泰が6月20日に京都を出発、途中から軍勢に加わるものも多く、2万余騎の大軍を率いて石見の国へと向かった。〔三角兼連は現在の島根県浜田市三隅町を本拠とした武士だそうである。三隅町の正法寺と三角神社に墓所があるという。〕
 7月27日に石見の国を流れる江の川の中流域の川岸に到着し、敵陣を眺めると、青杉、丸屋、鼓崎と3つの城塞が4、5町置きに丘の上に築かれていて、その麓を川が流れ、三鈷のように見える。この城塞は石見の国にその人ありと知られる佐波(さわ)善四郎が立てこもっている場所と見受けられた。〔沢善四郎は、邑智郡佐波郷、現在の島根県邑智郡美郷町の武士である。〕
 城から下りてきた敵兵300余騎が対岸に待ち構えて、ここを渡って来いと招き寄せる。
 寄せ手の2万余騎は、川岸に立ち止まり、どこを渡ればよいのかと川の流れに眼をやるが、水量の多い急流でなかなか思案が浮かばない。

 どこを渡ればよいのかわからない急流を、血気にはやって渡ろうとすると、水に溺れて死ぬものが出るかもしれず、それでは全く意味がない。もう日が暮れようとしている。夜になったら、泳ぎの達者なものをたくさん川の中に入れて、川の深さをしっかり測って、明日川を渡ることにしようと軍議は一決し、静かに馬を休ませていた。
 ところが、毛利師親(後に、元春と改名、安芸の武士)と高橋(高梁)九郎左衛門が300余騎を率いて、前陣にやってきて次のように述べた。源三位頼政が宇治の平等院に立てこもった時に、足利又太郎忠綱が宇治川を渡り、承久の乱の時に柴田兼義(能)が佐々木信綱と先陣争いをして瀬田川の浅瀬を渡った時も、どちらも瀬踏み(川の深さを測ること)をしてから馬を乗り入れたのであろうか。思うに、渡河が容易な場所だからこそ、敵はその地に兵を置いて防ごうとしているのではないか。この川の道案内は我々を置いて他にはいない。御一同、お続きください。
 こう言って2騎が川に馬を乗り入れ、彼らの郎等300余騎がそれに続き、安芸の三次の武士である三善が200余騎を率いてさらに続いて、馬筏を組んで川を渡り、対岸へと駆け上がった。佐波の軍勢はしばらく支えていたが、こらえきれず、敗走して背後の城の中に逃げ込んだ。

 毛利師親(→元春)は、吉川英治の『私本太平記』に登場する毛利時親の曽孫で、祖父・父が南朝方に味方したのに対し、曽祖父の意向を受けて足利方に加わり、後の大名・毛利家の基礎を築いた。この個所では知勇兼備の武将としての片鱗を見せている。彼の曽祖父である時親は、鎌倉幕府創設に貢献した大江広元の曽孫で、楠正成に兵法を教えたという伝承もある。吉川英治は『私本太平記』の中で、この人物をもっと活躍させたかったのだろうが、健康上の理由で十分に描き切れなかったのではないかと私は勝手に想像している。大江→毛利氏は鎌倉幕府にとっていわば元勲と言える存在の家柄であり、だからこそ北条氏に目の敵にされて、宝治合戦でほぼ壊滅状態になったのだが、一族の経光はしぶとく生き延び、その子、時親がさらにしぶとく幕府滅亡後も家系を継承させた。毛利家は隔世遺伝的にすぐれた武将の出る家系ではないかと、これも私の勝手な想像である。
 足利忠綱は藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の武士であり、治承寿永の乱において平家方で戦った猛将である。足利氏には、尊氏・直義に代表される清和源氏流足利氏もあるので、混同しないように気をつける必要がある。佐々木信綱は頼朝挙兵に従った佐々木4兄弟の長兄定綱の四男で、普通宇治川の先陣争いというと思いだされる佐々木四郎高綱の甥にあたる。実は、この二人の四郎の渡河における先陣争いの説話は混同されたところがあるのかもしれないと思われる。佐々木氏の高島、六角、京極などの流れは信綱の子孫であり、ということは『太平記』の主人公の一人といってもよい、佐々木(京極)道譽も信綱の子孫である。
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