FC2ブログ

細川重男『執権』(13)

3月20日(金/春分/休日)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。気温上昇。

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちの政権を築き上げ、維持しようとした悪戦苦闘の歴史であり、著者である細川さんの言葉を借りれば、「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。通説では、鎌倉幕府の政治体制は「将軍独裁」、「執権政治」、「得宗専制」の3つの段階に分けている。その一方で、将軍の座も「源氏将軍」、「摂家将軍」、「親王将軍」と変遷する。しかし、執権の座には一貫して北条一族の誰かが座っていた。この書物は、その悪戦苦闘の中心にいた北条氏代々の得宗たちが、どのように権力を把握・保持し、どのような政治的な成果を残し、そして後世にどのような影響を及ぼしたかを、承久の乱に勝利した北条義時、元寇を退けた北条時宗の2人の得宗=執権を取り上げて掘り下げていくものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府創設以前の北条氏が伊豆の小土豪に過ぎなかったことが明らかにされる。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」では、北条氏の事実上の初代:北条時政の庶子に生まれた義時が、頼朝死後の権力闘争の中で幸運にも生き延び、しだいに権力を握るに至った過程をたどっている。そして、『古今著聞集』に記されている、彼が武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説と、それが後代に及ぼした意義が考察される。
 第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」では、時宗が異母兄である時輔や、名越氏など一族・一門の有力者を排除してその独裁的な権力を固めた過程が辿られている。
 第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの」では、時宗が将軍として頂いていた惟康親王が、じつは源維康と名乗っていた時期がいちばん長いこと、これがきわめて異例であることが記される〔それがこの書物の趣旨とどのようにかかわるのか、いまひとつ腑に落ちないところがある。〕 
 文永5年(1268)に蒙古からもとらされた通交を求める国書が、幕府によって侵攻の予告と受け取られ、臨戦態勢の中で独裁政治が強化された。

 第4章 辺境の独裁者(続き)
  将軍権力代行者
 「内々御計ひ」
 時宗がその権力を絶対的なものにした「二月騒動」(文永9年、西暦1272)後の、彼の政治活動をもっともよく知らせてくれる史料は、問注所執事太田康有の日記『建治三年記』である。〔鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』は文永3年(1266)に将軍であった宗尊親王が上洛し、六波羅探題邸に入るところで終わっている。その後は、確実な記録が乏しくなるので、1年分しか残っていないこの記録『建治三年記』や、康有の子である時連の書いた『永仁三年記』が貴重な史料となるそうである。)

 建治3年、27歳の時宗は、ほとんど鎌倉郊外の別荘である山内殿(現在の北鎌倉の一部)で生活しており、そこで重要な政務の決定を行い、指示を出している。鎌倉と六波羅における人事のすべてが時宗によって決定され、事細かな指示まで時宗が主催する山内殿での寄合(秘密会議)で決定されている。
 朝廷との交渉も時宗が直接行っており、院宣(上皇の命令書)への返事の執筆者まで時宗が指定している。
 鎌倉幕府では頼朝以来、御家人の位階・官職への叙位・任官はすべて幕府が王朝に推挙することになっていた。この場合、推挙するのは将軍であったのを、時宗は執権が行うことに改めた。つまり時宗は将軍ではないのに、本来将軍に属する権力を手に入れてしまったのである。
 「時宗は執権であるが、将軍権力を行使する彼は、もはや執権の職権を越えた何者かである。…一言で言えば、「将軍権力代行者」ということになるだろう。そしてこの「将軍権力代行者」の権力こそ、これまで「得宗権力」とよばれてきたものの正体であると私は思うのである。」(177ページ) この権力は、時宗の死後、貞時・高時に引き継がれる。それが「得宗専制」とよばれてきた後期鎌倉幕府の政治体制となるのだという。
 「時政・義時以来、営々と幕府で権力の階段を上ってきた北条氏家督は、時宗に至って頂点と言うべき「将軍権力代行者」、すなわち鎌倉幕府の独裁者の地位に至ったのである。」(177ページ)

 秘密会議のメンバーと機能
 それでは時宗はどのようにして意思決定を行っていたのか。彼が大小事を決める際に催していたのが、「寄合」と呼ばれる秘密会議である。このメンバーを「寄合衆」というが、そのなかに選ばれたのはわずか5人、安達泰盛、平頼綱、諏訪盛経、太田康有、佐藤業連(なりつら)である。
 〇安達泰盛
 時宗の妻の兄で養父、さらに時宗の外祖母である(『徒然草』に登場する)松下禅尼の甥でもある。五番引付頭人。評定衆。泰盛以外の1~4番引付頭人は全員北条氏であり、したがって、泰盛は当時の幕閣において非北条氏の最高位であった。
 〇平頼綱
 身内人(得宗の家臣となった御家人)。得宗家の家政機関である得宗家公文所の執事。一般には「内管領」と呼ばれる(私も、高校の日本史でそう習った)。時宗の最側近という立場にあり、彼の家柄は得宗家累代の家人である。
 〇諏訪盛経
 身内人。得宗家公文所の執事として頼綱の前任者。身内人諏訪氏は信濃の諏訪大社大祝(おおほうり)家である諏訪市の分家である〔全国に諏訪神社が散在しているのは、このようにして鎌倉幕府の中で諏訪氏の力が大きくなったためであるという説がある。また、鎌倉幕府滅亡後、北条高時の次男・時行を諏訪氏が擁して短期間だが、鎌倉を回復した=中先代の乱も重要な事件である〕。
 〇太田康有
 文士(法曹官僚)。第6代問注所執事。評定衆。源頼朝の乳母の妹の子で初代問注所執事となった三善康信の孫。〔すでに出てきた『建治三年記』の筆者である。問注所の執事は、三善→太田氏が大体世襲していたようである。太田氏にはいくつかの流れがあり、源三位頼政の子孫と称し太田道灌や徳川家康の側室・英勝院を出して江戸時代には大名となった太田氏が有名であるが、ここで出て来る太田氏は、三善氏の子孫であるのは、すぐにわかることである。〕
 〇佐藤業連
 文士。評定衆。引付衆を経ず評定衆に補任されるという異例の登用をされた人物で、一族でも突出した出世を遂げた。時宗の恣意的な人事で登用されたと考えられるが、そのような先例や家格秩序を超えた人事がなされているところに時宗の政治の専断的な性格がうかがわれるという。

 「このように、外戚や累代の家臣、秘書ともいうべき実務官僚をメンバーとしておこなわれる寄合は、独裁者時宗の執政を円滑ならしめるための補助機関、強いて言えば諮問機関であるが、ようするに五人の寄合衆は時宗の手足であった。」(180ページ)
 もともと「寄合」は北条氏家督の私的会議であったが、時頼時代には北条氏一門の大物が顔を出しているのに対し、時宗の時代になると、一人もいなくなって、わずかな側近たちだけが話し相手というように変化している。〔重臣との打ち合わせから、側近との会合に変化しているということである。〕

 時宗の個人独裁
 『建治三年記』に記された以外の出来事を拾い上げても、幕府が寺社に依頼した異国降伏祈祷実施の手続きもすべて時宗が行っており、将軍維康には形式的に巻数(かんず=読誦した教典の明細書)が上呈されるにすぎない。さらに弘安年間に起きた興福寺と石清水八幡宮の荘園の境争論(境界争い)の過程をたどると、最終的な意思決定者がやはり時宗だったことがわかるという。それは評定―引付という実務的な政治制度に支えられた個人独裁制であったと考えられるのである。

  太守・副将軍
 「ただ者ではない」という認識
 時宗・貞時・高時という後期得宗三代が単なる執権ではなく、何か特別な存在であるという認識は当時の人々にもあり、それは彼らに対する呼称にあらわれているという。
 そうした呼称のひとつが「大守」(「太守」とも書く)である。
 「大守」を国守の唐名(中国風の呼び方)とすれば、相模守を「相大守」といっても問題はなさそうだが、王朝官制では「大守」は親王任国(親王だけが国守に任命される国)である上総(千葉県南部)・常陸(茨城県)・上野(群馬県)3か国の国守の称号で、しかもこの3か国はすべて大国(国の最高等級。国には大国・上国・中国・下国の4等級があった)である。だから、得宗が「大守」を名乗るのは僭上の沙汰であるが、そこに「ただ者ではないのだ」という認識が表れているという。

 もう一つは「副将軍」。鎌倉末の資料には貞時や高時を「副将軍」と記した例がみられるという。時宗についてはこの種の資料はまだ見つかっていないが、あっても不思議はないと木村さんは論じている。
 時宗政権期は、幕府は蒙古との戦闘を理由にして御家人ではない武士までも動員することになり、その権力が絶頂に達した時期であったともいえるのである。この絶大な権力を行使して、時宗は蒙古との戦いを続けることになるが、それはまた次回以降に。
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR