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木村茂光『平将門の乱を読み解く』(12)

3月19日(木)晴れ

 武士最初の反乱と言われる平将門の乱は承平5(935)年から天慶3(940)年まで続いたが、その間の天慶2(939)年に将門が「新皇」を宣言したことが、前例のない事件として注目される。この乱は、9世紀の後半から続いていた王権の動揺と対外政策の変化の中に位置づけられるべきものであり、そのような動揺を背景として将門が天命による新しい皇統の成立を宣言したのに対し、朝廷の側が王土王民思想をもって対抗している点が重要である。

「新皇」即位と王土王民思想(続き)
 「朱雀院平賊後秘修法会願文」の王土王民思想
 王土王民思想は国家の重大な転換期にあたって表明されたものであるが、土地制度を軸とした支配体制の転換・強化を意図した「延喜新制」「保元新制」の場合はそれまでの法令を根拠として主張されているのとはちがって、平将門の乱の場合は、「皇天」・「神明」と王権を超越した絶対的な意志が根拠とされており、それだけに支配層の強い危機意識を読み取ることができるという。
 ところで、平将門の乱と藤原純友の乱が終息した天慶10年には別の形で王土王民思想が表明された例があって、注目される。

 それは天慶10年に朱雀院が延暦寺で行った「東西凶乱」によって命を落とした法会の際のことで、ここでの王土王民思想の意味するところは、これまでの「延喜新制」、「保元新制」あるいは「将門追討の官符」の場合とは大きな隔たりを見せている。「追討官符では、「王土」に住む「王民」なのだから「憂国の士」だけでなく「田夫野叟」(庶民の意)まで将門を討滅するために決起すべきであると、人民を動員=使役する根拠として使用されていたが、この天慶10年の供養願文では、官軍であっても逆賊であってもみな「率土」に住む「王民」なのだから、平等に救済されなければならないという救済の根拠として使用されている。」(171ページ)

 さらに注目すべきことは、このような平等な救済を主張する根拠として、隋の高祖や唐の太宗が死亡した兵士たちを供養し救済した事績を引用していることである。木村さんは、「延喜新制」、「保元新制」、「将門追討官符」は日本的な王土王民思想の発現、この「巌門」の方は中国的な王土王民思想の発現であるといえるかもしれないと書いているが、そこまで結論を急ぐこともなかろう。むしろ、短期間のうちにまったく別の意味をもつ王土王民思想の発現がなされているところに、平将門の乱の衝撃の大きさを見るべきであるとも論じていて、こちらの方が説得力がある。

 源頼朝追討官符の王土王民思想
 実は、これまでそれほど注目されてこなかったが、将門の乱のような軍事的・国家的な危機に際して王土王民思想が発現されたもう一つの事例があると木村さんは言う。それは治承4(1180)年の源頼朝の挙兵である。平安時代末期の公家・吉田恒房(1142‐1200)の日記『吉記』には源頼朝「追討宣旨」が記されている。そこには「率土は皆皇民也、普天は悉く王の者也、絲綸(いりん・天皇のご命令)の旨誰か随順せざらんや」(174ページ)として、やや文意の通りにくい部分はあるにしても、王土王民思想に基づく武士たちへの動員令が発せられていると考えられる。「支配層は頼朝の挙兵を平将門の挙兵に匹敵する大事件である、と認識していたに違いないのである。将門の乱は、それほど平安時代後期の貴族社会に刻印された大事件であった。」(175ページ、それをいうならば、頼朝の挙兵は将門の乱以上の社会の変革をもたらした大事件であったということも書き落とすべきではないだろう。)

「新皇」即位の歴史的意義
 「中世皇統譜」の形成
 中央政権の動揺の中で、将門は「天命」思想を掲げて「新皇」を自称し、新政権を樹立しようとしたが、これに対応して貴族層は「王土王民思想」を持ち出して、乱の鎮圧への協力を呼び掛け、平貞盛や藤原秀郷の協力を得て、乱を平定できた。とはいうものの、将門の提起した「天命」思想は、貴族層に国王支配の新たな根拠を求めさせることになったと主張したのが、上島享(2010)『日本中世社会の形成と王権』である。その結果、考え出されたのが中世的な神祇秩序の形成と「中世皇統譜」の形成である。

 二十二社体制と中世的な『国内神名帳』に代表される中世的な神祇秩序については、すでに述べたので、ここでは上島による「中世皇統譜」をめぐる議論を検討する。上島によれば、「中世皇統譜」の形成にとって『先代旧事本紀』が果たした役割が大きいという。『先代旧事本紀』は平安時代の初期に成立したと考えられている史書で、天地開闢から推古天皇までの歴史が記されている。序文に聖徳太子・蘇我馬子らが書いた歴史であると記されていることから、偽書だと考えられた時代もあったが、序文だけが後世に付け足された偽作であり、物部氏に関する情報を多く載せているところから、それなりに価値をもつ書物であると考えられるようになっている。
 とにかく、偽書説が出てくるのは江戸時代の話であり、それまでは最古の史書として重んじられていたのである。ここでは、神話のスサノオの子孫が「地祇」とされ、降臨した天神のうち饒速日の子孫は「天孫」、ニニギの子孫は「皇孫」とされて、三者が明確に区別され、「皇孫」だけが王家の正統な系譜であることが示されている。

 「新皇」即位の歴史的意義
 将門が「新皇」即位を宣言したのは、彼が「皇孫」であることと、天命を受けたことの2つが根拠となっていた。この主張は京都の朝廷の人々にとって極めて衝撃的なものであった。将門の主張を論駁するために持ち出されたのが「王土王民思想」であり、そこに将門とは別の意味で中国の歴史思想を取り入れて、自分たちの立場を正当化しようとする意図があったのではないかというのが著者の主張らしい。著者自身もあまりはっきりした見解を記していないのだが、興味深い議論であり、今後の研究の発展が期待される。

 さて、将門の乱の経緯を記した『将門記』は乱の終息後、関係者の賞罰について触れて終わるが、その後さらに冥界に堕ちた将門からの手紙が付録されている。この奇怪な手紙は、後世の人々による将門と将門の乱の評価とかかわるものであり、次回に詳しく取り上げてみることにしたい。
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