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梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(14)

3月18日(水)晴れ

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年から1958年にかけて大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、東南アジアを自動車で回り、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。『東南アジア紀行』はその際の彼による私的な旅行記であり、この下巻ではタイを出発して、カンボジア、(南)ベトナム、ラオスを歴訪した旅の様子が記されている。
 梅棹は1958年2月12日に、隊員の吉川公雄(医師・昆虫学者)、外務省留学生の石井米雄(1928‐2010、後に東南アジア研究家、京都大学・上智大学教授、神田外語大学学長)とともに、タイのバンコクを出発、2月13日にカンボジアに入国し、2月21日にはベトナムのサイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)に到着した。サイゴンからタイ・ニンに出かけてベトナムの民族的な宗教であるカオダイ教の本部を訪問したり、華僑によるコーチシナ開発の歴史をたどったりする。2月28日に、サイゴンを出発、北ベトナムとの国境付近まで北上し、そこからラオスへと越境する計画をもっている。サイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックが通訳として同行した。各地に残っているチャムパの遺跡に、チャム族とベトナム族の長い戦いの歴史の跡を見たりした。

第15章 チャムの塔(続き)
 日本人はベトナム語を習うべし
 梅棹はこの旅行のために買い集めた東南アジア関係の書籍を「移動図書室」と称して自動車の後部座席で読んでいる。D.G.E.Hall, A History of South-East Asiaはなんでも書いてあるが、平板で、R.L.May, The Culture of South-East Asiaの方が面白い。分らないことがあると、通訳として同行しているディックに質問する。彼は歴史学専攻の学生なので、こういう時に便利である。
 それにしても日本人はベトナムの歴史について知らなさすぎる。〔梅棹がこのように書いてから60年以上たった今日でも事情はそれほど変わっていない。また東南アジアのほかの国にしても似たようなものである。〕
 ディックはベトナムの学校でもっと日本語と日本について教える必要があるという。そしてまた、日本でもベトナム語とベトナムについて教える必要があるともいう。
 その主張はもっともなことだと、梅棹は思う。

 ヴィェット・ナムとニュッ・バン
 梅棹も吉川もベトナム語はできない。勉強してみる気はあるのだが、日本で買った入門書が訳が分からなくて、投げ出してしまった。今回は、石井という言語研究の専門家が同行しているので、サイゴンでフランス語で書かれたベトナム語文典を見つけ、2人で研究した。サイゴンの日本大使館のベトナム人職員から繰り返し発音を教えてもらった。

 ベトナム語はどの言語系統に属するかをめぐっては定説がない。モン・クメール語の系統だという説と、タイ語に近いという説がある(梅棹が1992年に出した『実戦・世界言語紀行』では「クメール語と同じくオーストロアジア語族」(110ページ)と書いている。近年の研究ではオーストロアジア語族説が有力になっているようである。)。中国語やタイ語と同じく孤立語で、複雑な声の上げ下げ――声調がある。(中国標準語は四声)、タイ語は五声であったが、ベトナム語は六声ある。
 本来の言語系統がどのようなものであれ、ベトナム語には多くの漢語が流入していること、日本語(および韓国語)と同様である。だからベトナム語の中には、日本人が意味を判断できるものが少なくない。例えば、街角に《Quõc gia kiên thiêt》とあるのは、「国家建設」にちがいない。また道ばたの交通標識で、《Chú-ý>とあるのは「注意」である。サイゴンで公演していた日本歌舞団は、
Doan Ca Vu Nhât Ban (団・歌・舞・日・本)である。ベトナム語では修飾語は後からくる。
 日本はNhât Banである。ベトナムはViêt Namで漢字に直すと「越南」である。共に漢字による表記がもとになっている。

 表記法は今ではすべてローマ字である。昔は日本や朝鮮と同じく漢文が用いられた。そのほかに、「漢字かな交じり」ふうのベトナム語の文献もある。「かな」にあたるのは、チュー・ノム(字喃)といって、漢字を変形して作られた特殊な文字である。
 「ローマ字書きベトナム語の綴字は、フランス式というよりはポルトガル式である。16世紀以後、宣教師たちがこの国にやってきて、つくりあげた方式である。この書き方を、quôc nguつまり、「国語」とよんでいる。複雑な母音の区別のために、数種類の字母符号を用い、さらに5種類の声調符号をつけるので、印刷面はひじょうに複雑に見える。」(125ページ)

 ローマ字化を推進したのは植民者であるフランスの文化政策であり、その結果としてベトナム人は彼らの歴史と民族の伝統精神を失ったという説があるが、逆にローマ字化によって教育が著しく普及し、ナショナリズムが盛んになったという説もある。一行に同行しているディックにきいても、ローマ字の方が便利だから普及したのだという。〔梅棹がここで、ローマ字化によってタイプライターが使えるようになったという事情を見落としているのが、気になるところである。昔々、対フランス独立戦争を戦っていたベトミン軍の幹部がタイプライターで文章を起草していた場面を見ているので、フィールドでの観察をローマ字タイプで記録していた梅棹がそのことに共感しなかったわけではないと思うのである。〕 ベトナム語のローマ字化は、近代における文字改革の優れた成功例の一つだろうと梅棹は評価する。今後、ベトナムのナショナリズムがどんなに強くなろうとも、もとの漢字・字喃に戻そうという動きは起こらないだろうという(しかし、字喃が読めない歴史研究者ばかりになって、日本から応援に出かけているという話も聞いたことがある)。〔ベトナムの例と対比して検討する必要があるのは、モンゴルとトルコにおける文字改革であろう。〕
 日本語の表記をできるだけやさしいものにしようという意見の持主であった梅棹は、ベトナムにおける文字改革が日本にとっても有益な参考例となるであろうと論じている。もっとも、日本の現実を踏まえて、日本語のローマ字化や、かな文字化がそう簡単に成功しないだろうという見通しも述べているのである。

 ベトナム語の表記については、表記不可能な文字もあるので、できるだけ原文に近づけることにした。興味のある方は、図書館か古本屋で、梅棹のこの本を探し出して、もともとの表記を突き止めてください。そういう努力を通じて、ベトナム語を勉強しようという方が現われてくれれば、あの世の梅棹も喜ぶだろうし、また私にとってもうれしいことです。

 ヴェリ・ヴェリ・ヴェリ・ビューティフル
 一行は海岸の道を走っていくが、目のまえに拡がる景色は、大陸の赤褐色の道路を走ってきた人間にとっては美しく見える。しかし、そんな美意識を信用しすぎてはならない。風景に感動して写真を撮っても、その写真を日本に帰ってから見れば、ありふれた海岸の景色に過ぎない――と思うかもしれない(というほどに、梅棹の精神は覚めている。) ディックがヴェリ・ヴェリ・ヴェリ・ビューティフルという海岸の風景にしても、その言葉を信じない方がいいようである。

 生きている女神
 一行はニャチャンの近くにある、チャムの聖地ポー・ナガルの遺跡に到着する。ボー・ナガルは天に生まれた女神で97人の夫を持っていたという。(このような例を梅棹は何度か経験しているはずだが)その遺跡は過去のものではなく、信仰の場としてまだ生きているのである。「なかには、供えものがあり、線香がもえている。」(129ページ) それどころではない、奥から出てきた老婆に、一行は出て行けと追い払われる。チャム族に代わって、ベトナム族がこの地を聖地として維持している。実際、見ていると参詣客が絶えない様子である。境内には占いの店がいくつも出ていて、ひげを伸ばした老人が参拝客たちの運勢を占っている。

 自動式無料脱穀機
 「アンナン山脈の支脈が、海岸近くまでせまってきている。山と海とのあいだの、せまい平野に、美しい水田がつづく。あるものは青く、あるものはすでに黄金色である。」(129ページ)
 一行は、道路の上に稲束がならべてあるのに気づく。踏まないで通りすぎようとするが、上を通らずに通り抜けるのは難しい。ところが、サイゴンのロータリー・クラブで発行している観光案内書によると、道路に稲束を並べておき、自動車に踏ませて、脱穀作業にするのはこのあたりの習慣なのだそうである。
 梅棹は、この奇妙な習慣とともに、こんなことを観光案内書に書くことにも感心する。よほど書くことがないのだなという思いからである。

 永東亜旅店
 ヴァレラ岬の峠を越え、夕暮れにトゥイ・ホアの手前の川〔ダーラン川=沱浪江〕の岸に出た。橋はなかったが、渡し船で川を渡る。舟の中で一緒になったトゥイ・ホアの教会のアメリカ人の宣教師に教えられて、永東亜旅店というはたご屋に泊まることにする。
 はたご屋の中庭で、娘たちの歌を聞く。「甘い発声法、哀調をたたえたメロディー。わたしは、そのいくつかを録音する。なかに、「チャムは亡んだ」というのがある。チャムのことは、ベトナム人にとってはすでに現実の問題ではない。彼らは、亡んでいった民族の運命を歌いあげるだけの余裕をもっている。」(131ページ) この観察が正しいかどうかは議論の余地があるだろう。この後のベトナム戦争の中で、アメリカはチャム人たちを解放戦線に敵対する勢力として利用しようとしたからである。
 同じ宿に泊まっていたアメリカの若い軍人が話しかけていた。山岳地帯で軍事顧問をしているらしい若い少尉である。一人ぼっちで寂しそうであると、梅棹は観察している。

 近代における文字改革という大きな枠組みの中でのベトナムの文字改革と、その日本との関連性というような梅棹にとって(私にとっても)重大な問題が語られたかと思うと、旅行の現実の進行に話題が戻る。チャムの文明は過去のものか、なおも生き続けているのか、この問題は、梅棹がうすうすと感じているベトナム戦争の深刻化と結びついてそう簡単には片づけられそうもない。

 トゥイホアは北緯13度あたりに位置する都市〔現在の人口は20万人程度で、フ―イェン州の州都である〕なので、一行はまだかなりの道を北上しなければならない。その旅程でどのような出来事に遭遇することになるかはまた次回に。 
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