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細川重男『執権』(12)

3月13日(金)曇り

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが、自分たちの政権を築き上げ、維持しようとした悪戦苦闘の歴史であり、著者である細川さんの言葉を借りれば、「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。この書物は、その悪戦苦闘の中心にいた北条氏の代々の得宗がどのように生き、どのように戦い、後世に何を残したかを、承久の乱に勝利した北条義時と、元寇を退けた北条時宗の2人の得宗・執権に焦点を当てて考察するものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府成立以前の北条氏が、伊豆の小土豪に過ぎなかったことが論じられている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡」では、もともと北条時政の嫡男ではなかった義時が、頼朝死後の鎌倉幕府の権力闘争の中で運に恵まれて勝ち残り、権力を固めていった過程が辿られる。
 第3章「相模太郎時宗の自画像」では、蒙古襲来という危機的な状況の中で、時宗が異母兄の時輔や一門の中の有力者である名越氏を取り除いて、その独裁的な権力を固めていった過程が辿られている。そして義時が、景行から仁徳までの5代の天皇に仕えたという神話的な賢臣である武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説が、当時、かなりの範囲で信じられていたことに触れる(この伝説は、もう少し後で、意味をもつことになる)。
 第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの」では、執権時宗が頂いていた将軍・維康の変則的な経歴をたどり、維康の父・宗尊親王の京都送還をもって幕府の権力が執権に一元化したことが明らかにされている。

第4章 辺境の独裁者(続き)
  蒙古国書の到来
 使者到来、戦時体制へ
 文永5年(1268)閏正月8日、当時、事実上唯一の対外窓口であった大宰府を管轄する筑前(福岡県北西部)守護少弐資能(すけよし)によって、蒙古の国書が鎌倉にもたらされた。
 この国書は1か月後の翌2月7日、幕府より正式に朝廷に奏上される。京都の方が鎌倉よりも大宰府から見れば近いのに、こういうことになった理由を細川さんは次のように説明している。古代から日本の海外通交の窓口であった大宰府は、鎌倉時代になると、その次官である太宰少弐の官職を世襲し、それを苗字とすることになった九州有数の御家人少弐氏(もともとは武藤氏)を通じて幕府の支配下にあったので、国書はこのようなルートをたどって伝達されることになったのである。
 〔もう少し説明しておくと、大宰府の長官(かみ)は帥(そち)であり、9世紀以降は親王任官が通例(例外もある)となったが、現地に赴くことはなく、実権は権帥(ごんのそち)および次官(すけ)の大弐・少弐に移った。さらに権帥や大弐に任じられた都の貴族も現地に行かなくなったために、現地にいる少弐氏が実際の仕事を取り仕切るようになったということである。少弐氏とならぶ九州の有力御家人としては、大友氏と島津氏があげられる。〕

 国書をもたらしたのは高麗の人潘阜であったが、前年11月に対馬に到着、この年の正月に大宰府に至っている。国書が大宰府から鎌倉に届けられるまで約1か月、それから京都に送られるまでまた約1か月かかっているが、これは事態の重大性のために少弐氏および幕府が苦慮した結果であろうと思われる。
 国書は表面的には平和的な通交を求めるものであったが、「軍事力を行使するのは、だれが望むところだろうか」などと、脅すような文面もあり、日本側には蒙古の侵攻必至と受け取られた。

 2月から3月にかけて、京都では連日のように会議が開かれ、返事を出すかどうかが議論されたが、結局無視することに決まった。大宰府に留まっていた蒙古・高麗の使者たちは、要領を得ないまま7月に帰国した。その間、日本側は未知の外国との戦闘にすでに突入していたのである。
 もちろん、国書到来時点で日本側が蒙古についての情報をもっていなかったわけではない。商船や渡来禅僧などを通じて海外情報は伝えられていた。〔1279年に来日した禅僧無学祖元は鎌倉の建長寺の住持、また円覚寺の開山となったことで知られる。〕しかし、日本に伝えられていた情報は限られていたし、「さらに辺境の東国」(173ページ)にあった鎌倉幕府の対外認識はきわめて貧しく、「蒙古国書の到来は強敵襲来の予兆としか認識されなかったであろう」(同上)という。
 〔細川さんは触れていないが、当時の日本の主要な交易の相手は南宋であり、南宋軍が蒙古を苦しめていた火薬の原料となる硫黄が主に九州から産出・輸出されていたという事情もある。また渡来禅僧のほとんどが元の圧迫を逃れてきたということも視野に入れるべきであろう。〕

 潘阜らの使節一行がまだ滞在中の2月25日に、朝廷は二十二社への奉幣を行い、蒙古の難を報告、併せて祈願を行った。当時の朝廷は承久の乱以来、独自の軍事力を持っていなかったので、蒙古に対してはもっぱら寺社への「異国降伏」の祈願を繰り返すことになる。
 一方、実際の戦闘を担当する幕府は2月27日に、西国各国の守護に対し管国御家人を動員して侵攻に備えることを命じ、戦闘態勢の構築に入る。このような戦時体制下にあっては、権力が一点に集中し、強力な指導力が発揮されることが望ましい。〔もっともその権力が正常な判断ができることが前提になっている。〕

 蒙古国書の鎌倉到来から2か月たった3月5日、それまで連署だった時宗が執権に、執権だった政村が連署になるという前例のない執権・連署の交替が行われた。「幕政中枢は大切にその成長を見守ってきた時宗を、未曽有の国難に際し、ついに幕府政治の頂点に正式に位置づけたのであった。時宗、時に18歳。」(174ページ) 〔18歳というが、数え年で、満年齢では16歳である。今でいえば高校生に日本の政治の最高決定権を委ねているわけで、それが権力の実態であったのか、あるいは別に黒幕がいたのかなどと想像力を働かせてもいい場面ではないかと思う。なお、執権と連署の交替をめぐってはプーチン氏とメドヴェージェフ氏の例が参考になるかとも思ったのだが、ロシアの最近の政局は別の方向に進み始めたらしい。〕
 そして4年後に、すでに触れた二月騒動が起きる。これによって時宗は、彼に対抗する力をもった、あるいは持つ可能性のあった潜在的な勢力を一掃し、独裁的な権力を固めた。

 「時宗10歳の文応元年(1260)7月16日、北条時頼に上呈された『立正安国論』に日蓮が記した2つの予言のうち「自界叛逆難(じかいはんぎゃくのなん)」(=内乱)は12年後、果たして現実のものとなった。そして、いま一つの予言「他国侵逼難(たこくしんぴつのなん)」(=外冦)は、わずか2年後に迫っていた。蒙古帝国と対峙しなければならない時宗への権力集中は、ギリギリのところで間にあったと言えよう。実兄と一家一門、そして家臣たちの犠牲のうえに確立された絶対的な権力をもって、時宗はその生涯を賭して蒙古との戦いを続けることになる」(174ページ)。〔戦いを回避する方策がなかったのかという問題は残る。この点は次回以降に持ち越すが、細川さんも問題にしている。日蓮上人が独自の情報網をもっていたことについてはすでにいくつかの研究がある。上人が持っていた情報網を、幕府が共有できなかったことも問題ではある。すでに述べたように、時宗にも無学祖元のような情報網があったわけで、それらを総合してより賢明な判断ができなかったかという問題は残るのである。〕

 では、このような事態に直面して、幕府における意志決定がどのようになされていたのかというのは、次回に持ち越すことにする。 
 
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