FC2ブログ

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(11)

3月12日(木)晴れたり曇ったり

 武士最初の反乱とされる平将門の乱は承平5(935)年から天慶3(940)年まで続いたが、そのなかで天慶2(939)年に将門が「新皇」即位を宣言したことが注目される。この乱の起きた10世紀前半は、9世紀後半から続く政治体制・対外関係の動揺の時代であり、それまでの天皇が皇統の論理だけを根拠としてその位を継承してきたのに対し、将門の宣言はそれだけでなく、天命思想をも根拠としているという点で、新しさと危険性をもつものであった。

「新皇」即位と王土王民思想
 平将門追討官符以前の対応
 では、新しい論理をもって「新皇」への即位を宣言した将門に対し、京都の支配層の側はどのような論理をもって対応したか。9世紀後半から10世紀前半にかけての王権の揺らぎがこの乱によって決定的なものとなっただけに、支配層の危機感は並大抵のものではなかったことは十分想像できる。
 そのような危機に対応するために、朝廷がとった積極策が天慶3(940)年正月11日の太政官符の発布である。その内容については、後で詳しく取り上げるが、王土王民思想に基づいて、武士や民衆に対し将門追討に参加することを要請するものであった。
 この官符の意義を明らかにするためには、将門の乱に対する朝廷のそれまでの対応について検討しておく必要があると木村さんは言う。

 天慶2年、源経基によって将門の反乱の情報がもたらされたときに、朝廷がとった対策は大きく分けて2つあり、1つは乱鎮圧のための諸社への祈祷命令で、もう一つは東国の治安維持である。これらの方策は軍事力によって反乱を鎮圧するというような強硬な性格をもつものではなく、いわば「神仏頼み」をしながら、反乱についての情報を収集するというような対応であった。

 将門追討官符の発布
 しかし、天慶3年正月からその対応は一変し、強硬策が採用される。
 先ず正月6日に「五畿七道の各社」に乱平定の祈祷に対し神位一階を授けることが命じられた。また伊勢神宮にも奉幣が異例の形で行われた。
 将門の追討官符は、このように朝廷が危機感を募らせている中で、東海・東山道の諸国司に宛てて発布された。

 官符はまず、将門の反乱行為を指摘したうえで、「開闢(かいびゃく)以来、本朝の間、叛逆の甚だしきこと、いまだこの比にあらず」(163ページ)とその重大性を指摘する。そして、その重大さゆえに「皇天自ら天誅を施すべし、神明なんぞ神兵を秘(かく)すことあらんや」(同上)と、将門を討つことが「皇天」=天帝や「神明」≂神の意志であることを確認したうえで、次のように主張する。
 抑(そもそ)も一天下の下、寧(いずく)んぞ王土に非ざらん。九州のうち、誰か公民に非ざらん。官軍黠虜(かつりょ)の間、豈(あ)に憂国の士無からんや。田夫(でんふ)野叟(やそう)の中、豈に忘身の民無からんや。(同上、「天下の下」は「王土」であり、「九州=ここでは日本全土という意味」のうちに住むものはすべて「公民」なのだから、官軍が平定に苦慮している時に、「憂国の士」や「田夫野叟(庶民)」までもが将門討滅に決起するのは当然である)。明らかに王土王民思想に基づいた動員命令であると木村さんは論じる。

 これまでの研究では、左大臣藤原仲平(時平の弟、忠平の兄)が勅を受けて作成した反乱者を討伐したものに対しては恩賞を与えるという文言が、平貞盛や藤原秀郷の参加の誘因となり、彼らがその勲功に応じて受けた恩賞が武士として発展するもととなったことに注目してきた。しかし、ここでは、王土王民思想が持ち出されていることの意義の方に注目するという。朝廷が明確な形で王土王民思想を述べたのは、この官符を除くと、延喜荘園整理令と保元荘園整理令の2例があるだけであり、この思想が強調されるのが政治的な変革期であったことを物語ると、著者は論じている。それではこの2つの事例において、王土王民思想はどのように述べられているのであろうか。

 延喜新制・保元新制の王土王民思想
 延喜荘園整理令(延喜2=902年)の4月に発布された太政官符は、様々な理由をつけて国家的な公役(力役)に従わない人々に、従うよう命じたものである。そこでは天下の国土はすべて王土であるから、そこに住む民は王民であり、公役=国家が賦課する課役を拒むことはできないということで、強い意志をもって王土王民思想を述べ、政治体制の一新を宣言している。
 保元新制は保元の乱(保元元≂1156年)の3か月後に後白河天皇が発したもので、後白河の即位(久寿2=1155年)以後に宣旨による承認のないまま立てられた荘園はすべて停止することを命じたものであり、ここでも朝廷の強い意志が発現されている。
 これら2例はともに、時代の転換点を迎えて朝廷や院の強い意志に基づいて発令されたものであり、将門の乱の場合にも同じような意識が働いていたが、2例が土地制度に焦点を当てて支配体制の転換・強化を図る意図をこめていたのに対し、政治的・軍事的な危機意識に基づいていた点が異なるという。

 将門追討官符の意義
 これらのことから王土王民思想は国家や王権に関わる重大事件に際して発現されていたことがわかる。将門の乱はそのような国家や王権に関わる重大な事件であった。では、王土王民思想は何を根拠にして主張されているのであろうか。
 先ず延喜新制の場合は、「貞観以来の諸国の例」であり、保元新制の場合は「朝章に論ずるに」とあるようにわが国の法令であった。つまりわが国のこれまでの法令や制度を根拠として王土王民思想が発現されたといえる。
 ところが将門の乱の場合は、「皇天」(=天を主宰する神)と「神明」(=超自然的な神の意志)に基づいて王土王民思想が発現されていた。しかも王土王民思想の単なる根拠としてではなく、「皇天が自ら」将門に「天誅」を下し、「神明が神兵を隠さずに派遣して」将門を討つと、「皇天」と「神明」の将門追討への主体的な行動が前提として語られていることが注目される。それらは、具体性のない観念的な根拠であるように見えるが、現実の国家を越えたより高度な見地から発想されているところに、将門の乱への貴族層・支配層の強い危機感を読み取ることができるのではないかと著者は論じる。「まさに将門の乱は王権を覆すような重大な危機であったのである。」(169‐170ページ)

 王土王民思想は国家や王権の危機に際して発現されるが、その根拠に着目すると、土地所有・荘園に関わって発現された場合がそれまでの法制を根拠としているのに対し、将門の乱の場合には天や神々の意志が根拠となっており、より深刻な危機意識の表れではないかというのが著者の考えである。王土王民思想にはもう少し別の発現の例もあり、また将門の乱と同じような危機意識をもって現れた例もあるが、それらについては次回とりあげることにする。もっと後の時代になってもこの問題は続くが、古代の社会にあっては政治と宗教とが結びつき、我々の常識では考えられないような行動を呼び起こすところがある。そんな点に注意しながら、さらに読み進めていきたい。
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR