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梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(13)

3月11日(水)晴れ、気温上昇

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジア諸国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を実地調査した。旅行の後半、1958年2月から3月にかけては、カンボジア、(南)ベトナム、ラオスの3カ国を旅行した。
 梅棹は、隊員の吉川公雄(医師・昆虫学者)、外務省留学生の石井米雄(後に東南アジア研究者、1929‐2010)とともに、2月12日にバンコクを出発、13日にカンボジアに入国し、バッタンバンを経てプノムペンに到着、これらの都市のほか、海岸部やトン・レ・サップ湖の周辺を探索、21日にベトナムに入国し、サイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)に到着した。サイゴンから足を延ばして、タイ・ニンにあるカオダイ教(ベトナムの民族的宗教)の本部や、華僑によるコーチシナ開拓の中心地であったミートー、ベトナムにおける華僑の中心地であるチョーロン(現在はホーチミン市の一部)を訪問した。サイゴン大学関係者の協力を得て、ビザを延長し、またサイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックに通訳として同行してもらうことになった。28日、サイゴンを出発し、高原の避暑地であるダラットに向かうが、到着できず、途中の小さな町ジリンで一泊、3月1日にダラットに到着、特に見るべきものもないのですぐに退散して海岸のファンランの町に入る。

第15章 チャムの塔(続き)
 チャムの塔
 3月2日にファンランを出発して、さらに北に向かうが、その前に町の近くにあるチャムの遺跡らしい塔を見に出かけた。
 「わたしたちはいよいよ、チャムパの地域に入ってきたようだ。チャムパというのは、チャム族の国の名である。むかし、ベトナム族がトンキン・デルタの本拠から南下してくる前は、アンナン地方一帯には、チャム族がいて、チャムパという王国をつくっていたのである。」(119ページ)
 このチャンパ王国はインド文明の影響を強く受けた高度の文明国家であった。同じようにインド文明の影響を受けたクメールやモンの文明と姉妹関係になるといってもよいと梅棹は記す。彼らの宗教はバラモン教であった。そして、シヴァ神を信仰して、国内各地にその神殿をつくった。一行が訪問したのは、そのような神殿の一つの遺跡である。
 チャムパは、むしろ「チャンパ」と表記されることのほうが多いようである。占婆とか、占城と漢字で表記されることもある(林邑という呼び方がされることもある。バラモン教というのは、ヒンズー教の原型である。

 チャムパの建国は3世紀の末といわれる。当時北部のトンキン・デルタを本拠とするベトナム族は中国の支配下にあったが、中部のアンナン地方のチャム族は中国軍との間に何度も交戦を繰り返していた。その後チャムパはますます国力を蓄え、6~10世紀には最盛期を迎える。一方、ベトナムは10世紀以降、中国の支配を脱し、独立王朝〔1009~1225、リー(李)朝;1225~1400、チャン(陳)朝;1428~1527、レー(黎)朝(大越国)以下略〕の時代となるが、ベトナムとチャムパとの間に支配領域の争奪をめぐって激しい戦いが続いたのである。

 15世紀に入り、当時のレー(黎)朝の王タントン(聖宗)はチャムパ追討の大遠征軍を組織し、1471年にクヮン・ガイにおいてチャム軍を破った。続いてチャムパの首都チャバンが陥落する。〔チャムパの首都をヴィジャヤとする文献もある。〕 この敗戦で、チャム軍は6万が戦死し、王族以下3万が捕虜となって北方へ連れ去られた。この後、チャムパは衰亡の一途をたどることとなるが、その遺跡は南ベトナムのほとんど全域にわたって発見され、彼らの高度の文明生活を物語っているのである。

 チャムの末路
 「チャㇺとの闘争は、ながいベトナムの歴史をつらぬく、一本の太い糸である。世界の歴史のなかには、しばしば、となり同士でありながら、ついに一方が亡び去るまで相い争わなければならなかった民族の運命が語られているが、ベトナムとチャムパとはまさにそれであった。」(120‐121ページ)
 それから梅棹は、大和民族と蝦夷の例を引き合いに出して対比を試みているが、このあたりの歴史認識には問題が多いと思うので、省略する。
 むしろ「ベトナムとチャムパとの戦いは、ある意味では、中国文明とインド文明という、アジアにおける二大文明の、その接壌地帯インドシナ半島における決戦であったとも見ることができる」(121ページ)という指摘の方が的を射ているのではないかと思われる。

 1471年の敗戦の結果、チャムパの領土は、ヴァレラ岬以南に限定され、数世紀のあいだは、小王国として存続を許された。1720年、チャムの最後の王は、ベトナム人の圧力に耐えかねて、カンボジア領内に逃げ込んだ。その王統の子孫は、今世紀に至るまで続いていたという。「げんに、いまなおカンボジア領内には、そうとう多数のチャム族が住んでいるのである。かれらは、どういうわけかイスラム教徒になってしまっている。」(122ページ)〔このあたりの記述については、ベトナムおよびインドシナ半島の歴史についての最新の研究を参照して、点検する必要がありそうである。なおWikipediaで調べたところでは、カンボジア国内に317,000人、ベトナムに100,000人程度のチャム族が住んでいるようである。〕

 「ベトナム領にのこったものは、依然としてバラモン教を奉じているという。このファンランから南へ、ファンリ、ファンチェトとつづく海岸地方の3州には、かれらの部落がある。わたしははじめ、生きているチャム族を見るために、海岸ルートをとりたいと思ったのだが、歴史学研究所の人たちは、この道は橋がおちていて通れるかどうか疑問だといった。それで、ダラットまわりにしたのだった。」(122ページ) 〔歴史学研究所の人たちは、外国人が少数民族と接触するのを好まなかったために、嘘をついたのかもしれないという気もする。〕

 ベトナムとチャムパとの抗争をめぐる記述はここで終わり、次はベトナムの文化や言語をめぐる考察が展開される。それはまた次回に。
 この旅行に同行した石井は東南アジア、特にタイの言語、文化の専門家であったが、京都大学の東南アジア研究センター(現在は東南アジア研究所)に長く務めたのち、上智大学を経て、神田外語大学の学長を務めた。その神田外語大学に勤めていた友人・知人が少なからずいて、先日その1人の夢を見たその日に、書店で石井の『語源の楽しみ』(角川ソフィア文庫から『英語の語源』として再刊)を見かけたので、偶然とはいえ面白いと思った(こじつけっぽいかもしれない)。
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