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細川重男『執権』(11)

3月6日(金)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちの政権を築き上げ、維持しようとした悪戦苦闘の歴史であり、この書物の著者である細川さんの言葉を借りれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。この書物は、その悪戦苦闘の中心にいた北条氏の代々の得宗がどのように生き、どのように戦い、後世に何を残したかを、承久の乱に勝利した北条義時、元寇を退けた北条時宗の2人の得宗・執権に焦点を当てて考察するものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府成立以前の北条氏が伊豆の、小土豪に過ぎなかったことが記されている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡」では北条氏の初代とされる時政の嫡男ではなかった義時が、頼朝死後激しさを加えた鎌倉幕府内の権力闘争の中で運に恵まれて勝ち残り、権力を固めていった過程が辿られ、『古今著聞集』に掲載された義時が武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説が、当時かなりの広がりをもって信じられていたことが語られる。
 第3章「相模太郎時宗の自画像」では、蒙古襲来という危機的な状況の中で、時宗が異母兄である時輔や、北条氏の中の有力な一族である名越氏を取り除いて、その独裁的な権力を固めていったことが記されている。
 第4章「辺境の独裁者」では、時宗政権の権力の構造を他の執権時代と区別するために、鎌倉幕府における将軍の地位の継承が、室町幕府や徳川幕府とちがっていたことなどが考察されている。

第4章 辺境の独裁者(続き)
  後嵯峨源氏源惟康
 語られぬ将軍
 前回、鎌倉幕府における将軍が1つの家の世襲とならず、源氏将軍・摂家将軍・親王将軍とそのときの政治情勢を反映しながら変遷してきたこと、氏と苗字の関係などについて語られたが、その内容を予備知識として、いよいよ鎌倉幕府7代将軍「惟康親王」の履歴をたどることになる。
 ところが、維康がどんな人物かを知る手掛かりになる史料はまったくないという。彼については「その官職歴を羅列した史料や公式行事への参加の様子をたんたんと記した史料しか残されていない。」(157ページ) 〔「惟康親王」の父親である宗尊親王が歌人として、また名筆家として知られているのとはだいぶ違うということである。〕

 これは『吾妻鏡』のような詳細な記録が後期鎌倉幕府には存在しないことがその第一の理由である。ちなみに、『吾妻鏡』は治承4(1180)年に以仁王の令旨が北条館に届いたところから始まり、文永3(1266)年に第6代将軍宗尊親王が京都に到着して将軍を辞官するところで終わる。だから宗尊親王の次の将軍である「惟康親王」の動静については記されていないのである。〔なお、後の時代、徳川幕府によって足利幕府の正史である『後鑑』が編纂されるが、そこでは鎌倉幕府の滅亡前夜の元弘元(1331)年から足利幕府最後の将軍である足利義昭が没した慶長2年(1597)までの歴史を取り上げている。〕
 それにしても、維康が何らかの政治的な行動をしていれば、それがまったく記録として残らないということはあり得ず、彼についての記録の欠如は、彼が「完全に装飾的存在、お飾りの将軍であったことを示している」(157ページ)と細川さんは言う。
 しかし、維康の履歴を子細に見ていくと、どうも彼の履歴には皇族・貴族として異様に感じられるところがある。

 源氏将軍と時宗
 とくに目につくのは、維康が将軍就任後4年目、7歳になった時に源氏の姓を与えられていることである。これによって彼は源朝臣維康となった。だから彼は4人目の源氏将軍ということになる。ところが、もっと異様なことに、彼は24歳で親王宣下を受ける。賜姓を受けて臣下になった皇孫が親王宣下をうけたのは空前の事態である。もちろん、光孝天皇の皇子で賜姓を受けて源定省(さだみ)を称していた宇多天皇が、親王宣下を経て即位したという例はあるが、400年以上も前の話で、しかもこの場合は皇子である。

 維康は文永3(1266)年から正応2(1289)年まで23年余の間将軍であったが、そのうち4年5か月を維康王、16年10か月を源維康、1年11か月を維康親王として過ごしたことになる。その一方で時宗は文永5(1268)年から弘安7(1289)年まで執権であったから、彼が執権であった時期のほとんど、源維康を将軍として頂いていたわけである。〔これまであまり注目されてこなかった歴史的事実であるが、それが、時宗政権の性質を明らかにすることに、どのようにかかわるのかが、いま一つ納得できない。〕 では、時宗は鎌倉幕府、そして当時の日本にとってどんな存在であったのか?

  北条時宗の幼・少年時代
 時宗誕生
 北条時宗は生まれながらの北条家督であった。彼の誕生前後の大騒ぎについては『吾妻鏡』に詳しい。加持祈祷など誕生に際して大きくかかわったのが鶴岡八幡の別当隆弁(1208‐83)である。彼は天台宗寺門派の僧侶で、北条得宗家と結びついて三井寺の勢力伸長のために活躍した。そして、誕生以前から時宗にかける北条一門の期待が大きかったことが、この騒ぎについての記述の中から読み取れる。

 時宗6歳の康元元(1256)年、父時頼は重病のため執権職を赤橋長時に譲り、翌日出家した。いずれにせよ、長時は時宗が成長するまでのつなぎという位置づけであったが、時頼はまもなく病気から回復、連署を辞して出家していた母方の祖父(父方の大叔父)重時とともに、僧形で幕政を主導することとなる。それまでは一体のものであった北条氏の家督と、執権職の分離が起きたが、そのことによって時宗の位置が揺らぐことはなかった。

 正嘉元(1257)年に7歳で将軍宗尊親王を得帽子親として元服、「相模太郎時宗」と号する。〔弘長元(1261)年に時宗の異母兄である時輔が元服した際に「相模三郎」として、兄弟の序列第3位とされたことはすでに見た。〕 文応元(1260)年10歳で小侍所別当に就任、これが幕府役職就任の最初である。11歳の弘長元(1261)年には公式に時頼の子息第1位とされ、この年の4月に祖母(『徒然草』でその質素倹約ぶりを賞賛された松下禅尼)の姪である安達義景の娘と結婚した。
 その直後、重時の極楽寺山荘で将軍御覧の笠懸が行われた。ついでにその当時はあまり誰も顧みなくなっていた小笠懸も行うことになったが、やるものが見当たらない。そこで時頼は、自分の息子の時宗がうまいのでやらせてみようと言い出し、鎌倉から呼び出した。馬場に入った時宗は一度は失敗したものの、2度目に成功し、そのまま鎌倉まで馬でかけて戻るという見せ場を作った。〔頼山陽の『日本外史』のこの場面の描写が有名なので、興味があったら読んでみてください。〕

 こうして時頼は息子の才能を示す演出を心がけ、時宗はそのような期待に応えていたのであった。この年の末に、左馬権頭(さまごんのかみ)に任官し叙爵する。〔余計なことを書くと、源頼朝の父・義朝が左馬頭であった。横浜市の西の方の境川流域には義朝を祭神とする左馬神社が多いのが一つの特徴である。〕

 突然の将軍交替
 弘長3(1263)年に時宗の父・時頼が死去。しかし執権・赤橋長時、連署・北条政村を中心とする幕府首脳部は、来たるべき時宗体制に向けて着々と基盤を固める。
 翌文永元(1264)年、執権・長時が重病のために辞職、連署の政村が執権に昇進し、まだ若年の時宗は政村の後の連署に就任する(が、まだ実際に仕事はせず、名目的にその任に着いただけである)。
 文永2(1265)年、15歳になった時宗は、父の極官であった相模守に就任、翌、文永3年の6月に時宗帝に、連署時宗・執権北条政村・金沢(北条)実時・安達泰盛(時宗の妻の兄で養父)が集合して秘密会議が開催される。
 その結果を受けてのことかどうかは不明だが、7月に将軍、宗尊は上洛の途に就く。25歳、将軍在職14年であった。騒然としたなか、京都に向かう宗尊一行を北条一族の名越教時が帰京に抗議するかのように武装した武士たちを率いて見送っていたが、時宗に制止されて撤退された。彼は6年後の「二月騒動」で粛清されることになる。7月20日に、宗尊親王は京都に到着、六波羅北方探題常葉(北条)時茂(重時の子、長時の弟)の邸に入る。この記事をもって『吾妻鏡』は筆を擱いているのである。

 この事件をめぐり『増鏡』は和歌の名手であった宗尊親王のもとに、同好の武士たちが集まり、そのことが時宗に対抗する勢力の中心として親王が担がれる恐れを生み出したのだろうが、親王にはそのような野心はまったくなかったと記す。
 とにかく、将軍はともいうべき政治勢力は、宗尊親王の京都送還によって完全に粉砕され、以後、鎌倉滅亡の日までに度と復活することはなかった。将軍はこれ以後、完全にお飾りの存在となったのである。
 こうして「時宗の周囲の人々、幕府首脳部が目指してきた時宗への権力集中は、文永3年7月4日、すべての準備が整えられた。あとは時宗が成長し、実際に幕政を指導する日を待つばかりということであったろう。政村らは、やっと安堵の気持ちを抱くことが出来たかもしれない。
 文永5年(1268)閏正月8日までは。」(171ページ)
 鎌倉幕府を次に襲った事態が何だったかは、ご存知だと思うが、それについては次回に触れることにする。

 3月2日の『太平記』(304)でも書きましたが、『太平記』300回越えと、『執権』10回越えを記念して、アンケートを実施しております。安倍晋三首相は、北条氏歴代のだれに一番似ているか、1人を選んでください(2人以上でも結構です)。
(1)時政、(2)義時、(3)泰時、(4)時頼、(5)時宗、(6)貞時、(7)高時、(8)時行
 
 
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