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木村茂光『平将門の乱を読み解く』(10)

3月5日(木/啓蟄)曇りのち晴れ

 武士最初の反乱とされる平将門の乱は、承平5年(935)から天慶3年(940)まで続いたが、そのなかで天慶2年(939)に将門が「新皇」に即位した出来事の意義を、すでに宗教的な文脈から問題にしたが、今度は政治的な文脈から明らかにしようとする。
 この時期は皇統が文徳‐清和‐陽成から文徳の弟である光孝‐宇多‐醍醐へと移行し、そのなかで皇位についた宇多帝と政界の実力者である藤原基経のあいだの確執、宇多帝によって登用された菅原道真が基経の後継者である藤原時平によって左遷されたこと、その時平と醍醐帝が道真の怨霊によって(と当時は信じられた)死亡したことなど国家の動揺・危機的な状況が続いた。
 このような動揺は対外関係にも表れ、対新羅関係が悪化し、遣唐使が中止された。そのような対外危機の中で、日本は孤立的・排外主義的な外交政策に転換することになる。また、道真を左遷した醍醐帝が死後、本来ならば神聖な存在であったはずなのに、地獄に堕ちたという伝説が生まれるなど、天皇の権威とその「継承」を相対化する認識が生まれていたことが注目される。

「新皇」即位と天命思想・皇統意識
 「新皇」即位の根拠
 上島享(2010)『日本中世社会の形成と王権』はこのような9世紀後半から10世紀前半の国家・王権の揺らぎを東アジア全体の対外的緊張と影響の中で考え、その対応の中で中世王権の成立を考えようとする研究であった。
 上島はまず、日本の古代国家が規範としてきた唐帝国の衰退と滅亡(907)が日本の国家・王権のあり方を問い直す契機となったとする。さらに『将門記』の中で将門が渤海国の滅亡と東丹国への解消について言及している事実に注目する。これらの事実は当時の貴族社会では周知の事実であり、だからこそ、将門の「新皇」即位が貴族層にとって現実的な危機として受け止められていたことを物語るものであるとする。〔暑中で触れられている渤海国の滅亡→東丹国だけではなく、韓半島では後三国時代が始まり、907年には唐が滅び、五代十国の時代が始まり、916年には遼が建国するなど、東アジア世界では激変がつづいた。〕

 さらに将門は、「新皇」即位後にもともとの主人であった藤原忠平(時平の弟)に宛てた(『扶桑略記』にも収録されているので、信頼性の高い)書簡において、中国の易姓革命の論理を援用して自らの立場を正当化している。さらにまた、彼は自らが桓武天皇の子孫という皇統につながる存在であることを主張する。上島によれば、「将門の『新皇』宣言は皇統の論理と天命思想とによって正当化された」というのである。

 桓武天皇の天命思想
 上島の上記の説と関連して注目されるのは、将門が彼の皇統の論理の源として(自分の先祖として)挙げた桓武帝もまた天命思想を権力掌握の根拠としていたことに注目すべきであると木村さんは論じている。桓武帝は中国の皇帝が冬至の日に都の郊外に設けた天壇で天帝を祀る儀式にならって、天神を祀っている(この場合の「天神」は字義通りに、「天の神様」である)。〔現在の皇室行事としては継承されていない。〕
 〔桓武帝の父である光仁帝の即位によって、皇統はそれまでの天武系から天智系へと移った。〕 その桓武帝も天命思想と皇統の論理とを採用していたのであったと木村さんは論じる。将門が桓武帝の「五代の孫」を主張したのは、みずからを桓武帝に重ね合わせたのかもしれない。
 
 また桓武帝が即位した天応元年(781)は、辛酉(シンユウ、かのととり)の年でこの年は元日に(宝亀から天応に)改元されたが、この日も「辛酉」であった。「周知のように中国の革命思想では辛酉年には天命が革(あらた)まって王朝が交代すると信じられていたのである。〔江戸時代の学者伊藤東涯の『制度通』で、「本朝には辛酉・甲子の年、必ず改元あり。これを革令・革命という。この年に改元あることは、中国にはこの例なし。」(平凡社:東洋文庫版、17ページ)とある。神武天皇の即位が紀元前660年に相当するといわれている辛酉年の元日であったというのもこの考え方に基づく。その後、わが国で辛酉・甲子に改元してきたのは、革命を避け、「万世一系」を守るためであったと考えられる〔もっとも、年号を定めていない時代の方が、定めている時代よりも長いのである〕。ところが、明治以後、明朝以後の中国の「一世一元」の制を取り入れたので、話がちがってきた。その結果どうなるかは、まだ見えていないので、成り行きを見守ることにしよう。〕

 木村さんは、それまでの天皇が皇統の論理だけを根拠にその位を継承してきたのに対し、それとは違った天命思想を持ち出して将門がその「新皇」即位を正当化したことに注目する。これは皇統の分裂というだけでなく、これまでの皇統継承の論理と根拠までも揺るがしかねない主張であったというのである。それでは、京都の中央政府の側がこの挑戦に対して、どのように回答したかという話は、また次回に。 
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