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梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(12)

3月4日(水)雨が降ったりやんだり

 1957年11月から1958年3月にかけて、著者・梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の派遣した学術調査隊の隊長として、東南アジア諸国を歴訪し、熱帯地方における動植物の生態と、人々の生活誌の実地調査を行った。この書物はその際の梅棹による個人的な記録である。この下巻では、まず、彼が隊員の吉川公雄(医師・昆虫学者)、通訳して同行した石井米雄(外務省留学生、後に東南アジア研究家)とともに、インドシナ3国(カンボジア、ベトナム、ラオス)を歴訪した次第が記されている。
 一行は1958年2月12日にバンコクを出発し、13日にカンボジアに入国し、バッタンバンを経てプノムペンに到着、海岸部やトン・レ・サップ湖の周辺の地域も探索して、2月21日にベトナムに入国、サイゴンに到着した。「東洋のパリ」と呼ばれるサイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)には植民地時代の残影を感じて、もっとベトナムの本来の姿を見たいと思った梅棹は、民族主義的な傾向の強い宗教であるカオダイ教の本部を訪たりする。その一方で、コーチシナにおける華僑の活動の歴史をたどったりもする。

 今回から第15章に入る。「チャㇺの塔」の「チャㇺ」は、アンナン地方(ベトナム中部)の先住民族であるチャム族を指している。

第15章 チャムの塔
 「やってみることだ」
 梅棹一行は、サイゴンまでやってきたが、これからどうやって旅を続けてラオスに入国するかということについての目算は立っていなかった。「一ばん望ましいのは、南ベトナムを縦断してフエまで行き、17度線の近くでアンナン山脈を西に越えてラオスに入ることである。」(109ページ) しかし、そのルートをたどってラオスまで行けるかどうかは不確実である。北ベトナムとの国境地帯の治安は、道路の良しあしとともに、旅の行く末を左右する問題である。ゲリラが出没するという噂もある。
 大使館の人々もそれを心配したが、小川大使(当時)はゲリラにつかまればそれも一つの経験だと笑っていい、梅棹の企図を後押しした。とにかく、やってみることだ。となると、問題は、ベトナム滞在のビザを延長することである。

 サイゴン大学総長
 彼らの旅行の意義を理解し、ビザ延長に力を貸してくれそうな人物というと学術関係者であり、そのなかでも影響力のありそうな人物ということになれば、サイゴン大学の総長ということになる。梅棹はこの旅行のためにバンコクに向かう途中、サイゴンまで大阪商船のしどにい丸で旅行していたが、その際にサイゴン大学のグェン・クァン・チン総長にあっていた。さらにその後、バンコクのチュラーロンコーン大学で開かれた太平洋学術会議の際にもあっていた。それでこの地球物理学者とは3度目の対面ということになり、そのためできるだけの支援を約束しただけでなく、旅行の便宜のためにサイゴン大学の学生を1人同行させることも約束した。

 それから、文部省の文化局長にあった。この人はひじょうな親日家だということだった。それから歴史学研究所を訪れた。まだ若い感じの所長は、梅棹の顔に見覚えがあるという。昨年、アンコール・トムにジープ3台で来ていたのを見かけたというのである。「乗用車で、白人の老人と少女を案内している若い人がいた。わたしたちは名乗り合わなかったけれど、あいさつは交した。あれがこの人だったのだ。そして、驚いたことには、あの年とった白人は、ウィーンのハイネ・ゲルデルン博士だったのだ。東南アジアの民族学では、最高の権威といわれている人である。」(112ページ)
 世の中には、こういう出会いが起きるものである。ハイネ・ゲルデルン(Robert von Heine-Geldern, 1885‐1968)は、民族学、古代史、考古学者としてインドおよび東南アジアについての研究を行ったが、彼の祖父であるグスタフの兄が有名な詩人のハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine, 1797 - 1856)である。そういえば、ハイネの作品の中にはアジア・東方への関心をうかがわせるものがあったような記憶がある。

 「歴史学研究所では、特にチャムの文化について語り合った。チャムの遺跡の詳しい分布図を見せてもらった。北へ旅行するなら、途中でぜひミ・ソンの遺跡を見るようにアドヴァイスを受けた。」(112ページ)

 阮?笛
 2月26日、総長に指名されたサイゴン大学文学部歴史学科の学生グェン・ニェン・ディックが一行に同行するためにやってきた。彼はフランス語を話すが、英語もよくわかるという。ベトナム人の名には、それぞれに対応する漢字がある。例えば、ゴ・ディン・ジェムは呉廷琰であり、ホー・チ・ミンは胡志明である。ところがローマ字化の浸透した世代であるディック君はグエン=阮、ディック=笛は思いだせたが、ニェンにあたる漢字はとうとう思い出せなかった。
 ラオス大使館で、山越えルートの情報が分かる。半月ほど前に、30台ほどの自動車の編隊がヴィエンチャンまで行ったという。それからビザの延長も認められた。ベトナム旅行も、ラオス行きも準備が整ったのである。

 北からの避難民
 2月28日、10時、一行はサイゴンを出発してダラットに向かう。ディック君が加わったので、総勢は4人になった。
 ディック君はハノイで生まれ、そこで育ったが、停戦協定によりベトナムが南北に分離されたときに、船に乗ってサイゴンに移ってきた。多くの人々が北から南に移ったのだが、特に知識層が多かったようであるという。ベトナムでは南ベトナムにおいてさえ、ゴ・ディン・ジェムよりもホー・チ・ミンの方が人気があるという。では、なぜ北から南に逃げてくる人が多いのだろうか。
 ビエン・ホアで昼食をとる。前回に触れたように、アンナン帝国によってコーチ・シナに土地を与えられ、その開拓に従事した明の遺臣たちが作り上げた都市の1つである。ただ、そのことについてはここでは触れられておらず、一行がこの町の郊外で見かけた北からの避難民たちの部落のことが記されている。避難民たちの住まいのみすぼらしさと対照的に、立派なカトリックの教会が見える。避難民たちは、主として宗教的な理由によって南に逃げてきたのである。梅棹はカトリックと共産主義との相容れなさに、改めて感嘆する。フランス統治下において、カトリック教会がいかに成功を収めていたかを実感する。「ベトナムの宗教事情は、日本にやや似た点もあって、ひじょうにおもしろいのだが、カトリックの浸透という点では、まるでちがっている。その点ではむしろ、朝鮮に似ている。」(115ページ)

 日本には王様がいるか?
 ビエン・ホアからダラットに向かう道はよく舗装されていた。しかし、交通量は少ない。
 途中、ディン・クァンというところで、一休みしたが、そのちかくにモイ族の部落があった。「モイ族というのは、カンボジアでプノム族とよばれ、ラオスでカー族とよばれているのと同じ民族だが、インドシナ半島における古い住民である。言語の系統からいえば、モンやクメールとともに、南アジア語族に属している。かれらの家は、ベトナム式の土間ではなくて、高床である。村には、傾斜の強い草ぶきの屋根の、小さな家がたてこんでいた。」(116ページ) 彼らの様子は「不気味な野性味をもっている」(同上)と書く一方で、彼らが「車の中のわれわれに、機嫌よく微笑んでみせる」ことも書き留めている。

 その日のうちにダラットに着くつもりだったが、その見込みがないことが分かったので、ジリンで泊まることにする。ジリンは小さな町で、付近には茶畑が多い。その外側は深い密林で、ベトナムにおける狩猟の本場だということであった。フランス人の狩猟客を対象にしていたらしい、小さなフランス宿があり、そこで「日本には王様がいるのか」、「タイは共産国ではないのか」という一種の宿泊試験を受ける。植民地の独立と共産主義の浸透の中で、旧支配国の庶民がどのように生き延びていくかの智慧のようなものを彼は感じ取る。

 高原の避暑地
 翌朝、9時に出発、ダラットには11時に着いた。ダラットはもともとサイゴンの避暑地として発達した街で、1600メートルの標高の場所にある。熱帯アジアの国々を植民地化した白人たちは、それぞれの国に経営拠点としての都市を建設するとともに、それに付属する避暑都市を、その比較的近いところの高地につくった。インドのカルカッタに対してはダージリン、ビルマのラングーンに対してはメイミョウ、インドネシアのバタビアに対してはボゴール、そしてインドシナのサイゴンに対してはダラットがそれにあたるという。「日本は植民地ではないけれど、軽井沢は、その起源においては、やはり同じように、東京在住の白人たちによって開かれたものであると聞いている。」(118ページ) 植民地であるかどうかよりも、東京は熱帯の都市ではないというところのほうが問題ではないかと思う。〔ダラットはラムドン省の省都であり、人口20万人あまりというから、軽井沢と比較するのは少し無理がありそうである。〕 
 ダラットを「発見」したのは、スイス人の医師で、フランスの植民地軍の軍医として東洋にやってきたイェルサンだといわれる。彼は有名な細菌学者であり、モイ族の調査をしたり、インドシナにゴムの栽培を導入したり、いろいろの功績を残したという。イェルサン(Alexandre Yelsin, 1863 -1943)はもともとパストゥール研究所に勤め、北里柴三郎とほぼ同時にペスト菌を発見した人物である。

 ダラットの町は、建物と道路はヨーロッパ風であるが、自然はむしろ日本に似ていて、一行は「日本に帰ったみたいだな」と言い合った。しかし、体を休めるのにはよくても、精神を刺激するようなもののないこの地には退屈さを感じ、昼食後、3時に車を出発させる。東からは鉄道が入ってきている。線路はアプト式である。「小さな汽車が、急坂をあえぎあえぎのぼってくる。1600メートルを一気にかけおりて、6時半、海岸のファンランの町に入る。明珠旅飯店というのに泊まる。」(119ぺージ)
 
 
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