FC2ブログ

細川重男『執権』(9)

2月21日(金)晴れ

 鎌倉幕府の歴史は(主として東国の)武士たちが、自分たちの政権を築き・維持しようとした悪戦苦闘の歴史であり、著者である細川さんによれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。この書物は、その苦闘の中心的な存在であった北条氏の代々の得宗がどのように生き、戦い、何を残したかを、承久の乱に勝利した北条義時、元寇を退けた北条時宗という2人の得宗・執権に注目しながら解き明かそうとするものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府の成立以前の北条氏が伊豆の平凡な小土豪に過ぎなかったことが語られる。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」では、義時が頼朝死後の幕府の権力闘争の中で、どのようにその地位を高めていったか、そしてその権力の維持と継承の中で、彼が武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説が生まれたことなどが述べられている。
 第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」では、時宗には時輔という兄がいたにもかかわらず、得宗の継承者とされたこと、時宗と時輔との関係について語られてきた。この2人が「対立」することになったのが「二月騒動」である。

第3章 相模太郎時宗の自画像(続き)
  二月騒動の経過
 不可解な事後処理
 まず、二月騒動とはどのような事件であったのか、その経緯をたどる必要がある。
 文永9年(1272)、時宗は22歳で執権、時輔は25歳で六波羅南方探題であった。
 2月11日鎌倉で、北条一族で幕府の有力者であった名越時章、教時兄弟の邸が襲われ、時章は自刃、教時は討死した。ところが時章は誤殺とされ、時章を襲った討手の大将5人はその日のうちに斬首されてしまう。謀叛人とされたのは教時だけであったが、その討手には賞罰共になかった。
 その4日後の2月15日、京都では鎌倉からの早馬が到着した直後、六波羅北方探題赤橋義宗の手勢が南方探題府を襲い、合戦の中六波羅府は炎上、焼死者・戦死者を多数出し、南方探題時輔も討たれた。〔足利尊氏の正室・赤橋登子は赤橋義宗の孫である。〕
 乱後、時輔や、誤殺であったはずの時章の所領は没収された一方で、名越氏の幕府における地位はそれほど後退しなかった。「ほんとに、なんだか、よくわからない。」(139ページ)

  二月騒動の再評価
 潜在的脅威の除去
 以上のように事件の経緯は表面的にはよくわからないことだらけであるが、その底にあるのは文永5年(1268)初頭以来の蒙古の重圧であろうと考えられる。対蒙古戦争が不可避であると判断した鎌倉幕府は、臨戦態勢の構築のために、時宗への権力集中を急いでいたと考えられる。
 そのような状況の中で、時章・教時兄弟を中心とする名越氏は、得宗家に匹敵する高い家格を有し、鎮西・北陸に6カ国に及ぶ守護分国を領有、その政治的・軍事的な勢力は時宗の権力確立にとって障害となりうるものであった。さらに時輔の場合、その六波羅探題在任のうちに西国に相当の勢力を築いていたと推測されるし、それ以上に執権の異母兄という存在そのものが、時宗への権力集中に不満を抱く勢力の結集点となる可能性を持っていたと考えられるのである。〔当時の日本は66カ国、2島から構成されていたから、後に室町幕府の時代に山名氏が一族で11カ国の守護となって、「六分の一殿」と呼ばれた(明徳の乱の原因となる)のに比べると少ないが、6カ国というのも相当なものである。〕

 では、この事件の首謀者は誰か。事件の最大の受益者である時宗その人であると細川さんは論じる。
 得宗家と競合する地位を有していた名越家の勢力を半減させ、その鎮西(九州)における所領を没収したことは、その後の対蒙古政策に重要な意味をもつ。
 時章襲撃の討手の大将で、後に処刑された5人のうち4人が執権・時宗の御内人(家臣)であり、残る1人がう連署・政村の家臣であったことを考えると、この襲撃の指揮を執ったのが時宗だと考えるのが当然である。
 時宗の行動は一貫しないようでいて、実は周到である。一方で権力集中の邪魔になるような人物はピンポイントで取り除き、その一族に対してはすぐに慰撫の手立てを講じる。こうして混乱の拡大を防いだのだと細川さんは考えている。

 武威の発動
 このような手段に訴えなくても、誘殺、あるいは暗殺という手段もあったのではないかという意見もあるだろうが、「二月騒動にあっては、暴力の発動それ自体が目的化していたとすら考えられる」(143ページ)というのが細川さんの議論である。
 「鎌倉での武力衝突は四半世紀ぶり、京都が戦場となったのは実に半世紀ぶりである。しかも、その犠牲者は実の兄を含めた執権の一家一門であった。二月騒動が当時の人々に与えた衝撃は、実際の戦闘の規模を越え、今日我々が考えるより、遥かに大きかったのではないか。」(145ページ)

 時宗は鎌倉の名越兄弟には自分の個人的な軍事力を発動し、京都の時輔には六波羅探題という公的な軍事力を差し向けた。しかも時章の討手は誤殺であったとして、自分の命令に忠実であった家臣たちを処刑さえした。時宗は自分の意志に反するものは、肉身であろうと容赦せず粛清すること、またそのためには自己の有するあらゆる軍事力を発動することを示したのである。このように狂暴と言えるほどの暴力主義が時宗という政治家の本質の一つであったと断じられている。

 権力の確立
 二月騒動の後、時宗への権力の集中は急速に進む。彼の反対者に残された道は、もはや遁世しかなくなったのである。
 「時宗は名越兄弟と時輔を攻め滅ぼすことによって、自身の意向に反する者の末路を示してみせたのであった。恐怖は権威の構成要素の一つなのである。道理(人のおこなうべき正しい道)や撫民(民をかわいがること)を口にしようとも、武家政権の権力の根源は強制力にあり、武士の本質は・・・躊躇なく人を殺す暴力にある。・・・時宗は、二月騒動によって、自己を非情・苛烈の指導者として、世人に対し演出して見せたのであり、それは時宗の独裁権力確立をもたらしたのである。」(147ページ) 〔「道理」や「撫民」を建前としてでも口にした、泰時や時頼と、時宗のちがいを考えてみる必要もあるだろう。〕

  苛烈の自画像
 蒙古との戦いを前にして、時宗は自らは、兄を滅ぼしてでもその権力を固める鋼鉄の人になろうと決心していたのではないかと細川さんは想像する。そしてその時宗の政権によって、武士たちは御家人・非御家人の別なく未曽有の軍事動員に駆り立てられ、寺社・本所もまた鎌倉幕府から空前の干渉を受けることとなる。そこで起きた世人の不満・批判は時宗への畏怖によって封じられたのではないかという。

 「出口を失った怨嗟は、実弟の命によって殺された青年(時輔)への同情に形を変え、時輔の生存・廻国の物語となって、時宗政権下の日本列島に、さながら地下水脈のごとく流れ続け、兄を殺すことによって独裁者としての自己を確立した弟の卒去を契機として、鎌倉幕府が無視しえないほどの規模で歴史の表面へと湧き出でたのである。」(148ページ) これがこの章の最初で述べた島根県の鰐淵寺に伝わる、時輔手配書の語るところではないかというのである。

 今回をもって第3章「相模太郎時宗の自画像」を終える。次回からは第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの」に入る。細川さんは、鎌倉将軍7代、親王将軍2代ということになる惟康親王の異様な運命の転変に焦点をあてながら、その将軍を戴きながら執権職を務めた時宗とその政権の性格を明らかにしようとしていく。
 なお、皇族および三位以上の人の死を薨去と言い、四位・五位の人の死を卒去という。時宗は死亡時点で正五位下相模守であったから、卒去ということになる。以前、六波羅蜜寺で学生風のグループが「薨去」とは何かと騒いでいたので、貴人が死ぬことだと教えて、感謝されたことがあったが、どうも中途半端な教え方で、今にして思うと慙愧の念に堪えない。
 
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR