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木村茂光『平将門の乱を読み解く』(8)

2月20日(木)朝のうちはまだ晴れ間が残っていたが、次第に雲が空を覆う。

「新皇」即位と八幡神・道真の霊(続き)
 常陸・下野・上野の国司を追い出した後、平将門は「新皇」即位を宣言する。その際に八幡大菩薩と菅原道真の霊が登場していることの意味を著者は論じてきた。「『新皇』即位の歴史的意義」で律令制の下での神祇体系からはみ出た神祇である八幡神と菅原道真の霊が将門の「新皇」即位とかかわっていること、また「平安京における道真の怨霊と八幡神」で、この2神が当時の平安京にあって新しい神々であり、その神格を強化・向上させている最中であったことが指摘されている。

 関東における道真信仰
  常陸介菅原兼茂の役割
 それではなぜ、将門の「新皇」即位の場面に菅原道真の霊がかかわったのであろうか。この点に関連して、著者は川尻秋生がその研究の中で、道真の子息たちが東国の国司に任命されていることに注目していることを取り上げる。景行が常陸介、旧風(もとかぜ)が武蔵介、兼茂(かねもち)が常陸介に任じられているが、そのなかで川尻が特に注目しているのは兼茂であるという。兼茂は承平年間(931‐38)の後半ごろに常陸介であっただけでなく、『扶桑略記』には彼が父・道真の霊と対話したという逸話が記されているという。川尻によると、兼茂が常陸でこのことを語ったことが、将門の「新皇」即位にも影響したのではないかという。
 〔この本の130ページに菅原氏の略系図が掲載されていて、道真の子として11人が列挙されている中で、高視の子が、雅規、その子が資忠というところまでしか記されていないが、資忠の子が孝標で、やはり東国に地方官として下り、上総介であったことは『更級日記』が記すとおりである。〕

  大生郷天満宮社殿と2つの石碑
 木村さんはさらに、茨城県常総市の大生郷(おおのごう)天満宮の由来についても考えるべきだという。ここで、大生郷天満宮は日本三大天神に数えられるという記述があるが、念のために書いておくと、自社は日本三大天神に数えられるという神社はWikipediaによると11社あって、そのうち、北野天満宮と太宰府天満宮は、ほぼすべての神社が三大天神に数えているが、福島市の曾根田天満宮、福島県猪苗代町の小平潟天満宮、この大生郷天満宮、東京都江東区の亀戸天神社、鎌倉市の荏柄天神社、大阪天満宮、和歌山市の和歌浦天満宮、兵庫県高砂市の曽根天満宮、山口県防府市の防府天満宮が残る1つだと主張しているそうである。
 大生郷天満宮の社伝によると、道真の三男景行が、自分が死んだら骨を背負って諸国を遍歴し、それが重くなって動かなくなればその地に墓を造れという父親の遺言に従って、この地にやって来てこの地に至ったのがこの神社の起源だという。

  二つの碑文 → 二つの碑文の評価
 明治44(1911)年に発見された2つの碑文:桜川市真壁町羽鳥の歌姫神社にあった石碑と、大生郷天満宮の石碑は、ともに今日では碑文を判読できなくなっているが、景行が羽鳥の地に菅原神社を建立し、後に景行・兼茂・景茂の三兄弟が神社を大生郷に移したことが記されていたという。

 これらの碑文は、後世の作と考えられるが、景行が菅原神社を建立した際の協力者とされている源護・平良兼は将門が最初に戦った相手であること、大生郷のある豊田郡が将門の支配地であったことなど、注目すべき内容が含まれている。あるいは将門の乱以前にすでに道真伝説→信仰がこの地域に根付いていた可能性も考えられるからである。八幡神については何とも言えないが、将門が「新皇」即位を宣言する際に、道真の霊が出現する条件は当時の関東にもあったのではないかと木村さんは論じている。

 平将門の乱と中世的宗教秩序の形成
  二十二社制の成立
 道真の霊魂と八幡神が神格を獲得し、その地位を上昇させていく過程が、将門の乱とほぼ並行しているだけでなく、将門の乱はその契機となっているというのが著者の考えである。そしてこの2つの神は承平・天慶の乱の後も、その神格を上昇させていく。
 岡田荘司はこの時期に、律令神祇令に規定された古代的な神祇体系が崩れ、新たな神祇体系が形成されてくることを指摘した。その代表的な表れが二十二社奉幣制である。

 平安時代の朝廷と神社をつなぐ祭祀制度の一つが奉幣制であり、国家の重大事に際して、朝廷から臨時に使者が遣わされ、宣命を奏して幣帛を奉られるが、使者が遣わされる神社は9世紀末~10世紀初頭に成立する十六社制から次第に数を増して、11世紀後半には中世的な神祇秩序である二十二社制として確立したというのが岡田のまとめである。
 それで、二十二社というのは、伊勢(伊勢)、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、小原野、梅宮、吉田、祇園、北野、貴船(以上山城)、春日、大神、石上、大和、広瀬、龍田、丹生(以上大和)、住吉、広田(以上摂津)、日吉(近江)の各社をいうが、この中に新興の神である北野天満宮と石清水八幡宮が明確に位置づけられている点が重要であるという。このような神社の格付けの変化は、神祇体系の変化を反映するものであり、将門の「新皇」即位の場面に登場していた天神と八幡神が国家的な神祇秩序の中に位置づけられていることに、神祇体系の変質を見ることができるという。

  『国内神名帳』の作成
 この二十二社制とともに、中世的神祇秩序の成立にとって重要なのは、承平・天慶の乱後全国で新たな『国内神名帳』が作成されたことであると著者は論じる。上島享は古代的神祇秩序から中世的神祇秩序への転換に際して承平・天慶の乱が果たした役割を強調しているが、その議論において重視しているのは、承平・天慶の乱の平定後に諸国によって勧進された「神名帳」に基づいて神々の位を引き上げていることであるという。「神名帳」に取り上げられた神々の数は『延喜式』に列挙されたものをはるかに上回り、新たな秩序の編成を告げるものであった。
 木村さんは、上島の議論に加えて、天満宮と石清水八幡宮もこれらの中世的な「国内神名帳」成立の動向の中に含まれていたことを確認している。

 「新皇」即位と八幡神・道真の霊
  八幡神・道真の霊登場の背景 → 八幡神・道真の霊登場の意義
 将門の「新皇」即位の場面における八幡神・道真の霊魂の登場は、中世的な宗教秩序形成に大きな影響を与えるとともに、その変化を象徴する出来事であったと、著者は論じているが、平安京における宗教秩序の変化はそれなりに説明されているとはいうものの、東国における変化は、道真の霊についての検討はあるものの、八幡神をめぐる検討がされていないので、まだまだ説得力が欠けているように思う。
 宗教秩序ということでいえば、中世神話の形成とか、仏教との影響関係とか、掘り下げるべき問題はまだまだ残されているのではないかという気がする。この書物が取り扱っている時代から後の話になるのかもしれないが、将門の伝説と北辰(妙見)信仰が結びついていく問題なども、議論すべきではないのか。などと、偉そうなことを書いてしまったが、私は人生の半分近くを神奈川県で過ごしていながら、まだ荏柄天神にお参りしたことがないことを思い出した。できるだけ早くお参りすることにしよう。

 次回からは、将門の乱を追討する際に朝廷の側が持ち出した主張である王土王民思想をめぐる議論を見ていくことにする。  
 
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