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梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(8)

1月23日(木)雨

 1957年11月から58年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジアを訪問し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。旅行の後半で、彼は隊員の吉川公雄、外務省の留学生である石井米雄とともに、カンボジア、ベトナム、ラオスの3カ国を歴訪した。
 最初に訪問したのはカンボジアで、1958年2月13日に入国、21日まで滞在した。当時のカンボジアでは中国人の存在感が強く、2月17日から始まった春節の影響を受けながら、南部の海岸地方に足を延ばしたり、乾季で面積が縮小したトン・レ・サップ湖の周囲を(前年の旅行で訪問した分を加えて)一周、水上の集落を訪問したりした。

第14章 コーチシナ平原
 この第14章から第16章までの3章が当時の南ベトナムの訪問記となっている。梅棹一行の足跡は北ベトナム(当時)には及んでいないが、それでもカンボジア、ラオスに割り当てられているのが2章であることを考えると、旅行の中でのベトナム訪問の比重の重さが分かる。

 サイゴンへ
 2月21日午前11時に、梅棹一行はプノムペンを出発して、サイゴン(当時、現在はホーチミン市と改称されている)に向かった。バナムの渡し場でメコン川を渡り、スヴァイリエンを経て、5時半に国境に着いた。
 ベトナムについては、反日的である、警察や税関が官僚的で腐敗している、ベトコンのゲリラが出没するから(特に地方は)危険だなどの悪いうわさを聞いてきた。3カ国の中では一番治安が悪いようなので、多少の緊張を感じながら入国しようとした。

 国境の入国審査は、大したトラブルもなく通過することができた。「国境をすぎて、わたしたちは一路サイゴンに向って、コーチシナの大平原を走った。」(78ページ) 途中、交通違反で警官に注意されることはあったが、いくつかの町を通り抜けて、だんだん慣れてくる。人々の様子も別に反日的というわけではなさそうだ。
 「タイやカンボジアの、地味な風俗を見なれた目には、ベトナム風俗は、おどろくばかりあでやかで、都会的に見える。
 家もかわった。タイやカンボジアの高床式の住居は、ここでは影をひそめる。みんな土間である。私たちは、あきらかに違った文化圏に入ったことを知る。服装も、住居も、中国ふうに近いという印象をうける。わたしたちは、極東文化圏に入ったのだ。」(79ページ)
 次第に町が大きくなり、にぎやかになる。日没後、一行はサイゴンに到着する。

 大使公邸
 一行は夜のサイゴンを走って、大阪商船の駐在員である山下さんを訪問するが、山下さんは病気であった。それで大使館に回ったところ、すでに顔見知りであった代理大使の小川さんから公邸に泊まってはどうかという申し出がある。
 「それはまったく、夢のようなはなしだった。3人とも1つずつへやをあてがわれた。冷房つきである。それに、日本人の板前さんがいる。自動車旅行のつかれも、あやしげなシナめしの栄養失調も、これで一気にふっとんでしまうというものだ。」(80ページ)
 カンボジアのところでも書いておいたが、カンボジアでは「同文同種のよしみからではないけれど、わたしたちには、やっぱりシナめしの方が口にあう。」(60ページ)と言っておいて、君子豹変である。

 パリの昼寝
 「東洋のパリ」と呼ばれるサイゴンは美しい町であるが、梅棹は何となく親しめないものを感じる。彼は固有のベトナム的なものを求めているのである。しかし、街並みはフランス風、走っている自動車はシトロエンが多く、店の看板にもフランス語が多いし、商品もフランス製、本屋にならんでいるのもフランス語で書かれた学校の教科書のような本が多い。雑誌も新聞もフランス語である。

 それどころか、昼寝の時間もフランスの習慣そのままであるという。しかし、梅棹は、これはベトナム固有の習慣ではなくて、フランスからとりいれられたものではないかという。「ベトナムでも、地方へゆけばこんな習慣は存在しないにちがいない。ベトナム人は、もっと勤勉なはずである。」(82ページ)
 「サ[ン]ゴンは、長年にわたって、フランスのインドシナ経営の拠点だった。だから、フランスふうがしみこんでいるのもむりはないかもしれない。しかし、ベトナムは独立したのである。独立後のベトナムの人たちは、このフランス的な「美しさ」と生活習慣を、やはり誇りに思っているのだろうか。」(82ページ)

 ベトナムのことはよく知らないが、タイの人は、日本人に比べて早起きであり、おそらくは昼寝をする分、朝早くから体を動かしているのである。だから梅棹の、昼寝は勤勉ではない、アジア人はもともと勤勉である、だから昼寝はもともとの習慣ではないというような議論は疑ってかかる必要がある。梅棹は朝に弱かったから、自分自身の調子がようやく乗り始めた時間帯に昼寝というのは納得がいかなかったのであろうが、このあたりでの議論は少し乱暴である。

 サイゴン風俗
 もちろん、独立後のベトナム化が進行している側面のあることを梅棹は見落としてはいない。例えば道路の名前がベトナムふうに改められた。とはいうものの、市街地に、ベトナムふうの建築はまれである。「失われたものの、ある部分は、もはや、永久に失われたのである。」(83ページ)
 とはいえ、例えば女性の服装などは完全にベトナム化しているという(梅棹はアオザイという語を使っていないが、民族衣装の女性が多く、洋装姿の女性はまれであると書いている。ただ、アオザイがそれほど古い歴史を持つものではないことに、梅棹は気づかなかったようである。)

 「とにかく、ベトナム共和国は独立したのである。ゴ・ディン・ジェム総統はその政治的シンボルである。」(84ページ)
 梅棹が東南アジアを訪問していた1957~58年に私は小学校6年生だったから、自分の外の世界についてそれほどしっかりした知識はもっていなかったが、今調べ直してみると、第一次インドシナ戦争(1946~54)の終了後、南ベトナムにゴ・ディン・ジェム大統領のベトナム共和国が「成立」したのは1955年のことで、この時点では建国間もなかったのである。1975年にサイゴンが陥落して、ベトナム共和国は崩壊するから、ベトナム共和国=南ベトナムの歴史は約20年、第二次世界大戦後についてみても、ベトナムが南北に分裂していた期間よりも、統一国家としての期間の方が今でははるかに長くなっている。梅棹が垣間見た南ベトナムの姿もまた、「失われたもの」に数えられるように思われる。

 梅棹は、この後、近世から近代にかけてのベトナムの歴史をたどって、筆を走らせるが、それはまた次回に紹介するとしよう。
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