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『太平記』(298)

1月20日(月/大寒)晴れ

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)、京では南朝討伐に功のあった高師直・師泰兄弟が奢りを極めていたが、それを妬む上杉重能(足利尊氏・直義兄弟の母方の従兄弟)と畠山直宗(足利一族)は、高一族の排除を企てた。その頃、夢窓疎石の兄弟弟子で、足利直義に重用されていた妙吉侍者は、高兄弟に軽んじられたのを憤り、直義に、高師直を秦の滅亡をもたらした趙高になぞらえ、高兄弟を討つように直義に進言した。
 直義はまず、尊氏の庶子で自分の養子となっていた足利直冬を、長門探題に任じて西国へ下した。
 この年2月、清水寺が炎上し、6月11日には、四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者を出したが、それは天狗の仕業であると噂された。

 上杉、畠山はいよいよ讒言を連ね、妙吉侍者も高兄弟を取り除くことをしきりに勧めたので、直義は兄である尊氏には知らせることなく、上杉、畠山に加えて、高一族の大高重成、千葉一族の粟飯原清胤、利仁流藤原氏の斎藤五郎兵衛入道らを集めて、評定を行い、こっそりと高兄弟を討ち取ろうと相談した。中でも大高伊予守(重成)は大力である、宍戸安芸守は歴戦の勇士であるということで、この2人が討ち取ることと決められ、もしそれでも討ち取ることができないときの用意にと、武芸に秀でた武士たちを100人以上集めてそこここに潜ませた。そして何食わぬ顔で、師直を召し寄せた。
 大高重成は第9巻で尊氏が篠村から引き返して六波羅を攻めたときに、「足利殿の御内に大高次郎重成と云ふ者なり」(第2分冊、62ページ)と名乗りを上げた時が初登場で、その後も尊氏に従って足利軍の一角を占めてきた。しかし、貞和4年(1348)に足利尊氏の怒りを買って、若狭守護を解任され、所領をすべて没収された。その理由は不明である。なお、大高重成が失脚した際に、側杖を食っているのが粟飯原清胤である。(亀田俊和『観応の擾乱』43-44ページ参照)。ただ、今回取り上げた個所でもわかるように、師直とは違って直義と近く、この後から展開される観応の擾乱をうまく乗り切ることができた。武人ではあったが、夢窓疎石と足利直義との禅問答集『夢中問答』を出版したことで、文化史、宗教史にその名を残している。〔森茂暁『太平記の群像』、角川文庫、180‐181ページ参照〕 宍戸安芸守は、常陸国茨城郡宍戸荘)の武士だという。

 まさか直義が自分を討ち取ろうなどと考えているとは思わなかった師直は、騎馬の若党を3人連れて、安心しきった様子でやってきた。若党や中間は、皆侍の詰め所、主殿の前庭に控えており、中門(表門と主殿のあいだの門)に連なる白壁の塀で主殿からは隔てられていた。師直は1人で客間に通されて座っていた。彼の命はまさに風前の灯火ということになっていたが、彼を暗殺する謀議に加わっていた粟飯原下総守が、突然心変わりして、暗殺計画を師直に知らせた方がいいと思うようになり、ちょっと挨拶するような格好で、きっと目で挨拶をした。師直は、抜け目のない人物であったので、すぐにそれが何を意味するかを察して、ちょっとしばらく退出するようなふりをして、門前から馬に乗り、自分の宿所に帰ったのである。

 その夜が暮れると、すぐに夜の闇に紛れて粟飯原と斎藤が師直の邸にやってきた。そして直義の居館である三条殿では、上杉と畠山を中心に謀議が進められており、かくかくしかじかとこれまでの経緯を語った。師直は喜んで、2人に相当の引き出物を与え、これからも三条殿の様子を内内に知らせてほしいと頼んで、相原と斎藤を返した。師直は、これから用心を厳しくして、一族若党数万人(これは大げさ)を自邸の近くの民家に宿泊させ、出仕をとどめて、仮病を使って邸にこもっていた。

 前年の春から、師直の弟である師泰は、楠一族の中で最後に残っている正儀を討伐しようと河内国に下って、石川河原(大阪府富田林市の東部を流れる石川の河原)に楠一族に対する向かい城を構えて対峙していた。そこへ師直は使いを送って、事情を知らせたところ、師泰は紀伊の国の守護であった畠山国清に連絡を取り、彼の代わりに石川河原の城に入らせたうえで、急いで京都に戻ってきた。畠山国清は足利一族で、この後も登場することになる。

 直義は、師泰が大軍をひきいて上京してくるという噂を聞いて、この人物の起源をとらないと師直排除の計画は上手く行かない、だましてやろうと思ったので、飯尾修理入道(宏昭、幕府の引付衆)を使いに出し、「師直の政務ぶりは短才庸愚(才が無く凡庸で愚か)なので、しばらくの間政務への関与をとどめているところである。これからは、師泰を管領(執事、将軍の補佐役)に任じるものである。政所(幕府の財政・行政を司る役所)やその他の運営は、丁寧に行うべし」と管領職を委ねようとした。
 師泰は、この使いに対して、どうもありがたいお申し出ではあるけれども、枝を切った後で、根を断つという腹積もりではないのでしょうか(師直を倒した後で、今度は師泰を倒そうと画策している)。どのように入京して、お返事を申し上げればよいのでしょうか(わかりません)」と直義の目論見に反して返答をして、すぐにその日のうちに石川の館を引き払った。鎧兜で武装した兵3,000余騎に、7千人ほどの人夫たちに各種の盾を持たせ、今にも合戦に取り掛かるような様子で、しかも白昼に京都に入ってきた。京の人々は洛中でまた合戦が起きるのかと驚き、恐れおののいたのである。

 師泰は師直の宿所に入り、いよいよ三条殿(直義の居館、また直義のこと)との合戦が始まるといううわさが広がったので、8月11日の宵に、赤松入道円心とその子・則祐、氏範が700余騎を率いて、師直の邸に出かけた。
 師直は、赤松父子と急いで対面して、直義殿は理由もなく師直とその一族を滅ぼそうとされており、事態は切迫していると告げた。そして、彼は将軍≂尊氏にこの事情を説明したところ、尊氏は、直義がそのような企てをするのは穏やかではない。なんとかその企てをやめさせて、直義に師直の讒言を吹き込んだ者たちを重く処罰するべきである。もしその命令に従わずに、師直に討手を遣わすことがあれば、尊氏は必ず師直と一緒になって、安否を共にするつもりであると言われた。
 将軍のご意向がはっきりしたので、もし直義殿から討手が使わされば、反撃する所存である。京都のことは、内内に気脈を通じているものが多いので、安心である。しかし問題は、直冬殿が備後に居られることである。もし中国地方の兵を率いて京都を目指して攻め込んでこられると、厄介なことになる。今晩すぐに(赤松氏の本拠である)播磨におくだりになって、山陰道、山陽道から攻め上ってくる敵を杉坂、船坂の要害の地で食い止めてはくれないかと、依頼をする。赤松一族の武勇はこれまでの歴戦で明らかである。そして、藤原道長に仕えて勇武の士として知られた藤原保昌(伝説では源頼光、彼の四天王とともに大江山の鬼を退治した)のもっていた、代々受け継いで身辺から離さないできた護身用の懐剣を錦の袋に入れて、引き出物として与えた(大変な信頼ぶりである)。
 
 赤松父子3人はその夜ただちに都を発って播磨に下り、3千余騎の配下の兵を2手に分けて、備前の船坂、美作の杉坂、2つの道を封鎖したので、直冬は、備後から軍勢を率いて上京する心づもりであったのが、予定が狂ってしまった。

 いよいよ観応の擾乱と呼ばれる室町幕府の初期における最大の戦乱が始まろうとしている。今回、師直が打った布石のために、直冬は一応抑えられたが、この程度のことでは事態は収まらないはずである。
 亀田俊和さんによると、この擾乱によって室町幕府の権力構造が鎌倉幕府(と建武新政権)の単なる模倣から、室町幕府独自のものへと変化することになるという。それはさておき、ここでは人間関係に重点を置いて、事態の推移をみていきたいと思う。三条殿(直義)の下に、また高師直の下に、多くの武士たちが集まり、一触即発の危機が出現するというのは、また次回に。 
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