大津雄一『『平家物語』の再誕 作られた国民叙事詩』(3)

8月16日(金)晴れ

 1912(大正元)年に出版された五十嵐力の『新国文学史』は武士道を中心として時代を描いたのが『平家物語』などの軍記であるというそれまでになかった視点を示す。それは武士道は「封建の余習」だとするような当時の新しい思潮とは対立するものであった。

 『平家』の時代には<武士道>という言葉はなく、この語が散見されるようになるのは近世からであり、武士の道徳を表す言葉として広く使われるようになったのは、明治になってからのことである。もともと戦乱の世にあっては、謀略により相手を倒すことは当たり前のことであり、それが世の上に立つ為政者としてふさわしいものではないと批判されるようになったのは儒学が盛んになった徳川の太平の時代になってからのことである。こうして儒教に則った<士道>が提唱されるようになる。それが幕末の尊王攘夷運動の中で、自己鍛錬としての「道」からナショナリスティックなイデオロギーへと変貌し、明治を迎えることになる。維新後、武士道が特に注目を集めるようになったのは、日清戦争後に国家意識が高揚してからのことであると著者は論じる。

 1902(明治35)年に山岡鉄舟の言葉を集めたという『武士道』が出版されるが、これは武士としてふさわしい出処進退や心構えについて語ったもので、自己鍛錬の<士道>の系譜に連なる書物である。また1900年にアメリカで刊行されていた英語版が、翌年日本でも出版され、1908年には邦訳が出版された新渡戸稲造の『武士道』は欧米におけるキリスト教に基づいた道徳に対応するものとして日本には武士道があると論じるものであり、「他国の人々とも共有しうる倫理を求め」(115ページ)る姿勢から書かれていた。私が新渡戸の本を読んだ限りでは、武士道はヨーロッパの騎士道に対応するものと考えられており、その意味で大津さんの評価は正しいと思われる。(ただし、騎士道には女性に対する尊重や弱者に対するいたわりが含まれている点に注目すべきではないかとも思う。)

 しかし、この後急速に広まっていったのはこれらとは異なる武士道であった。1901(明治34)年に井上哲次郎は『武士道』を出版しているが、その中で武士道は日本だけの比類のない道徳観であるとするナショナリスティックで偏狭なとらえ方が強調され、それが国民道徳あるいは日本精神の根幹を形成すべきものであるとされた。それは日露戦争後に社会不安が顕在化する中で、政府が国家主義的な教育を強化しようとする動きの中で積極的に採用される考えとなった。武士道という概念は『平家物語』が描いた時代にも、この物語が成立した時代にも存在はしなかった。しかしひとたび武士道が国民道徳の中に取り込まれてしまうと、軍記物語について論じる際にもこの点に触れなければならなくなる。五十嵐の『新国文学史』はこのような状況を反映するものであった。

 国家主義的な動きの一方で(著者はこのあたりの社会と思想の展開の力学を詳しく論じているとは言い難いが)、社会運動も盛んになり、自由主義的な文化も普及し、大正デモクラシーと呼ばれる動きも見られる。この時代を代表する歴史学者である津田左右吉は『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の中で「戦記文学」について取り上げ、『平家』が民衆の思想を反映する文学であることを指摘している一方で、「貴重な国民詩であり国民文学である」(125ページ)と評価する。また英文学者の土居光知は1922(大正11)年に『文学序説』を刊行し、英文学の理論に依拠しながら社会の発達段階と文学形態の展開との関連性を明らかにしようとした。彼は社会に騒乱が起こり、人々の関心が外部に向けられると、叙事詩がその時代の代表的文学形態になると論じ、『平家物語』などの軍記物をこのような変動期の産物である叙事詩に位置付けている。しかしこれらの意見は国文学者からは無視された。大正時代を通じて国文学研究は盛んではあったが、これまでの研究をより詳しく繰り返すだけの内容に終わっていた。このあたりの議論は著者の主要な関心ではないからであろうか、やや粗雑に感じられる。議論が詳しくなるのは、戦時下における『平家』と軍記物語をめぐる部分に入ってからである。(つづく)
 
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