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『太平記』(292)

12月10日(火)曇り

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年、なお、『太平記』では貞和5年の出来事として描いているが、これは誤りである)正月、京都の足利尊氏・直義兄弟によって楠討伐のために派遣された高師直・師泰兄弟は、正行・正時の楠兄弟と四条畷で対戦し、一時は苦戦したものの、これを破り、楠兄弟は自刃した。勢いに乗った師直は吉野の皇居や金峯山寺を焼き払った。師直に追われて吉野から賀名生に退去した後村上帝以下の南朝の人々は、暮らしにも事欠く有様だった。
 一方、南朝討伐に功のあった高師直・師泰兄弟はますます心驕り、見苦しい振る舞いが多くなった。師直は一条今出川にその身分を越えた豪華な屋敷を構え、高貴な身分の女性たちを次々とわがものにしていた。その弟の師泰はというと…

 「これらはなほもおろかなり」{第4分冊、249ページ、これらは(師直が豪華な屋敷を構えたり、高貴な身分の女性をわがものにしたりしたのは)まだましな方である}と『太平記』の作者は評する。「越後守師泰が悪行を伝へ聞くこそ不思議なれ」(同上)と、その弟師泰の「悪行」について語りはじめる。
 師泰が東山の枝橋(現在の京都市左京区今出川口の辺り)に山荘を造営しようと考えて、その土地の持主が誰かをたずねてみると、菅原氏の長者である宰相(=参議)菅原在登(ありのり)の領地であることが分かった。そこで、使者を送って、この土地を譲ってほしいと申し入れた。
 使いの者に対して在登は申し出の趣は承知したが(本当は承知したくないのだが、長い物には巻かれろということであろう)、この地は先祖代々の墳墓の地であり、せめて墓標を移転するまでの猶予をお願いしたいと答えた。これを聞いた師泰は何を言うのか、本当は土地を譲りたくないからそんなことをいうのだろうと怒って、その墓をみんな掘り崩してしまい、樹木を切り倒して地ならしをした。すると、地に重なり落ちた五輪の下に、苔にまみれた死骸が見えたり、割れた石碑に昔の人の名が刻まれていたり、あわれ惨たらしい情景が目の前に広がった。

 どこの誰だか知らないが、余計なことをする人はいるもので、一首の歌を書いて、地ならしをしている土の上に立てかけた。
 亡き人のしるしの卒塔婆堀棄てて墓無かりける家造りかな
(第4分冊、250ページ、故人の墓石を掘り捨てて家を建てても、永くは栄えまいよ。墓が無しと、はかなしをかけている。) 
 師泰はこの落書を見て、これはきっと菅三位(=在登)の仕業にちがいない。当座の口論にことよせて、差し殺せと言って、亀山院の皇子寛尊法親王の寵愛の稚児で五護殿と呼ばれていた大力の少年をたきつけて、強引に在登を殺させてしまったのは哀れむべき出来事であった。在登は代々の学者の家の出身で、北野天満宮の祀官であるとともに文芸の大家でもあった。何でこのような不運に出会ったのか、まことに気の毒なことであった。
 森重暁『太平記の群像』(角川ソフィア文庫)によると、師泰が菅原氏の墳墓を破壊し、在登を殺害したということをめぐっては傍証はないそうである。『常楽記』{じょうらくき=永仁3年(1295)から応永32年(1425)にかけての天皇・公家・武家・僧侶などの死没年月日を列記した一種の過去帳)には、在登は観応元年(1350)5月16日に子息在弘とともに護吾丸のために同時に殺害されたと記されているという。また『祇園執行日記』{ぎおんしぎょうにっき=京都祇園社(八坂神社)の執行(しゅぎょう≂寺務を担当する僧職、この時代は神仏混交しているからこういう役職の人がいた)の日記}にも5月16日に「西院宮児五々殿」のために殺害という記事があるそうである。それで在登父子が「吾護殿」という稚児に殺されたことは事実のようであるが、事件と師泰との関係は明らかではない。(森、168ページ参照)

 さらにまた、この山荘を建てているときに、四条大納言隆蔭に仕えている青侍(公家に仕える六位の侍)上杉重藤と古見宗久とが通りかかって、山荘造営に使用されている人夫たちが汗を流してこき使われているのを見て、どうも気の毒なことだ、身分の低い人夫たちであるとはいっても、これほどまでに痛めつけなくてもいいだろうと非難の言葉を漏らしていきすぎていった。この工事の現場の責任者であった中間がこれを聞きつけて、何者かは知らないが、ここをとる公家仕えの侍が、このようなことを言って通りすぎていきましたと師泰に言いつけた。
 師泰は大いに怒って、よくも言いおったな、人夫をいたわれというのであれば、そ奴らを使うべしといって、遠くまで去っていた2人の武士を呼び戻し、人夫たちの着るつぎはぎだらけの粗末な衣服に着替えさせて、高位のもののつける立て烏帽子をへこませて、庶民の被る柔らかな烏帽子のようにして、夏の暑い日1日中、鋤をとって土を掘り返させ、石を掘っては釣り輿で運ばせるなどこき使ったのであった。これを見た人々は非難のしぐさをして、命は惜しいものではあるが、恥を見るよりも死んだほうがいいのかななどといいあったのである⦅表向き、2人の武士を非難しているが、心の中では師泰を非難しているということであろう)。
 この事件が歴史的な事実であるかについては、森さんの前記著書では触れていない。

 これらはまだまだたいしたことではないと『太平記』の作者は続ける。貞和4年の正月に師直が吉野に攻め入ったときに、師泰が石川河原(大阪府富田林市の東部を流れる石川の河原)に陣をとって周囲ににらみを利かせたことはすでに述べたが、その一帯の寺社の所領を、領主に問い合わせることなく差し押さえてしまった。のみならず四天王寺の燈明の費用に充てる荘園もその中に含まれていたので、700年にわたり一度も消えたことのなかった仏法常住の燈(仏法の不変を示す燈)も消えてしまい、それとともに仏法の威信も失われたのである。

 また、何者であろうか、極悪非道な人物が云いだしたことに、この辺の塔の九輪(塔の最頂部に立てる九重の金具の輪)は混じりけのない赤銅製であるそうだ。これを使って鑵子(かんす=茶の湯を沸かす釜)を鋳造したら、おいしいお茶が飲めるはずだなどという。それをもっともだと思った師泰はある寺の九輪の輪を1つ外してそれで鑵子を鋳造させた。すると、言われた通りじつに芳しいお茶を飲むことができた。
 上に立つものがこのように仏法を敬わない行為をするものだから、配下の者も我も我もと近くの寺の九輪をはずしてそれで鑵子を鋳造した。そのため和泉、河内の三重塔、五重塔、九重塔、多宝塔など数百か所の塔婆でまっすぐなものは1基もないという有様となった。あるいは九輪を下ろされて、柱の上の枡形の木枠だけが残っているもの、またあるいは塔の中心となる支柱を切られて、建物の土台だけが残っているもの、宝塔に座す多宝如来と釈迦如来の像を飾っている瓔珞(宝玉)が雨ざらしになり、五智の如来(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就)の肉髻が夜の雨に打たれて濡れているという仕儀である。昔々仏教の敵となった物部守屋が再びこの世に生まれ変わって、仏法を滅ぼそうとしているのかと思えるほどにあさましい様子であった。
 これらの行為についても傍証となる資料はないようであるが、森さんは配下の武士たちの「所領横領の黙認については、当時の在地領主たちの寺社本所領に対する濫妨・狼藉の停止を幕府が徹底させえなかった事情を反映しているようである」(森、169ページ)と師泰に対しむしろ同情的な評価をしていることを書き添えておこう。

 師直に続いて、師泰の兄を凌ぐ悪行の数々が記されて、兄弟の悪逆非道振りが描き出されるが、今日の歴史研究の中でそのような人間像を裏付ける史料が確認できるわけではないことも付け加えなければならない。ただ、師泰の悪行の描写を通じて、どうも『太平記』の著者が寺院の関係者だったらしいことが推測できる。
 さて、このような師直・師泰兄弟の驕慢に対し、反感を持ち、排除を企てるものが出てきても不思議はない…というのが次回以降の展開である。詳しいことは、その時に。
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