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梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(4)

11月28日(木)雨が降ったりやんだり。この空模様が3日続くと、さすがに嫌になる。

 1957年の11月から1958年の3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジア諸国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。さらに1961年から62年にかけて派遣された第二次の調査隊にも客員として参加して、研究のその後の進展を見届けた。この書物は、この調査旅行における梅棹の私的な記録をまとめたものである。
 北タイで調査を進める他の隊員たちと別れて、梅棹と医師で昆虫学者の吉川公雄は、タイを出て、カンボジア、ベトナム、ラオス歴訪の旅行に出かけた。通訳として、当時外務省の留学生であった石井米雄が同行した。
 1958年2月12日、梅棹一行はワゴン車に乗り込んでバンコクを出発、その日はナコーン・ナーヨックに一泊、2月13日に国境を越えて、カンボジアに入り、バッタンバン市に到着した。カンボジアはタイとちがって、フランスの植民地であったので、その名残が見られる一方で、中国人の存在感が大きい。バッタンバンは第二次世界大戦中、タイ領に編入されていたために、まだタイ語が通じるので、一行にとっては好都合であった。〔以上、第12章「歴史の足あと」の途中までの要約〕

第12章 歴史の足あと(続き)
 誤解されたお客
 梅棹はタイに滞在中は彼の乗っているワゴン車の左方に日の丸の旗を、右方にタイ国旗を立てていた。カンボジアに入ったので、今度は右方にカンボジアの国旗を立てようと思って、バッタンバンの町で旗を売っているところを探した。町はずれに旗屋があるのを見つけて、入ったところ2階の応接間に通されるという歓迎を受けた。あとで判ったことであるが、この店で大量の旗を注文したタイ人がいて、石井のタイ語が上手なので、そのタイ人と間違えられたのであった。誤解が明らかになった後でも、この店の人々が歓待の態度を変えなかったのはありがたいことであった。
 厚意に甘えて、梅棹は家の中の様子を見せてもらった。この一家は平均以上の暮らしをしているようで、家の中は清潔で、よく片付いていた。「わたしは、バルコニーから裏を見る。周りはカンボジア人の住宅ばかりである。市の中心部のシナ人街とはまるでちがって、高床、トタン葺きの家である。みんな小さく、貧しげである。庭には、バナナやパパイヤの木を植えて、かれらの住まい方は、こんな都会であっても、まるで農村的である。かれらは、いったいどういう職業についているのだろうか。」(44‐45ページ)

 農村風景
 「バッタンバンからは、道はひじょうによくなった。トンレ・サップ南岸の大平原を、まっしぐらに走る。さえぎるものもなく、田んぼが無限にひろがっている。米の国カンボジアの中心部に入ってきたのである。」(45ページ)
 トンレ・サップ湖は、雨季になると水を集めて、乾季にはからからに乾いている土地までも拡大する。その時に備えて、道端の民家には小舟が備えられている。
 バッタンバンからポーサットに向かう途中、いくつもの小さな、貧しげな村を通りすぎる。家のつくりは高床式であるが、その高さは1メートルばかりということが多い。村を囲む森もなく、家々の周りにビンロウとバナナの木が植えられている程度である。
 しかし、村人たちの様子は陽気であると、梅棹は観察した。男同士、女同士でおしゃべりに興じている。女たちの服装や髪形はタイのメナム平原に似ているが、少し違うところがある。すでに米の収穫が終わって麻袋に詰められていて、あとは中国人の経営する精米所に送られるだけということらしい。
 ところどころに寺が建てられている。カンボジアはタイと同じくテラワーダ(上座部)仏教の国である。タイと同じく、男子は一生のうち一度は僧になる習わしだという。「寺のスタイルはしかし、タイよりも単純で、そして美的である。」(46ページ)

 甘美な国家の味
 一行はポーサットを経て、コンポン・チュナンに向かう。道はよくなったが、その道を利用しているのは牛車が多い。「山のように、素焼きのツボをつんだ牛車が、ゆっくりと歩んでいる。そんな車に、何台も行きあう。このあたりに、陶器の大生産地があるのだろうか。」(46‐47ページ、残念ながら、「陶器の大生産地」については確認できない。)
 通りすぎる、どの村でも初等教育の学校に通っているらしい子どもたちの姿を見かける。カンボジアが教育に力を入れていることがわかる。コンポン・チュナンの町に入ると、陸軍の兵士たちの行進がおこなわれていて、人だかりのために車を進めることができなくなった。「独立を保ち、国を未来におしすすめてゆくためには、新しい世代の教育とともに、武装もまた必要なのである。」(47ページ)

 と、サイレンがひびきわたり、兵士たちは直立不動の姿勢をとり、群衆も静止した。毎日の夕方におこなわれる国旗の掲揚式に出会ったのである。こういう国家的な儀式に日本人は感動しなくなっているが、「…独立をかちとってまだ日の浅いカンボジアは、『国家であること』をいまや、深く味わっているところなのであろう。ながく国家であることを失っていた国にとっては、国旗も、国家的儀式も、軍隊も、それは、えもいわれぬ甘美な味わいのものであるにちがいない。」(47‐48ページ)
 儀式が終わると、人々がまた動きだす。一行は公園の露店の喫茶店で飲物を飲もうとするが、当時のカンボジアは(冷戦の中で)中立政策をとっていたために、アメリカ系の飲物は輸入されていなかった。「この国の喫茶店においてあるのは、どこでつくっているのか知らないが、赤や青や黄色の、いかにも毒々しい色つきの水である。まさか毒にはならないだろうが、ためしに飲んでみたら、まことに言語を絶する味で、一口でやめた。中立主義国家の味は、われわれにとっては、かならずしも甘美ではない。」(48ページ)

 オールド・ファッションのお役人
 カンボジアの都市交通の主力は、シクロとよばれる人力による三輪自転車である。タイではサームローとよばれているが、カンボジアではシクロというのは、フランス語から来たものであろう。〔日本でも輪タクというのが1970年ごろまでは走っていたはずである。〕 タイのは本当に三輪であるが、カンボジアの場合は、普通の自転車の後ろに二輪の座席を連結したもので、タイヤの数からいえば四輪であるという。

 シクロのたまり場で、乗ろうとしている老官吏を見かける。梅棹が注目したのは彼の服装である。白いつめえり服に黒のパーヌンをはいていた。パーヌンというのはタイ語で、クメール(カンボジア)語で何というのかは知らないが、外見はタイと同じだと梅棹は書いている。
 タイでも官吏の正式の服装は白のつめえり服にパーヌンだと何かの本に書かれていたが、それは昔の話で、王宮の使用人は色物のパーヌンをつけているとはいうものの、ほかの官吏はカーキ色の軍服みたいなものを着ている。ところが、カンボジアでは昔通りの服装をした官吏が今でもいることを確認する。なんとなく懐かしい気分になったと梅棹は言う(梅棹が私生活では和服を愛用していたことを思い出してもいいのかもしれない)。
 「もっとも、この服装を持って、タイやカンボジアの固有のものと考えることはできないであろう.固有のものの形をのこしながら、それはあきらかにヨーロッパ風な改変をうけたものである。」(49ページ) 官吏の服装から東南アジアにおけるヨーロッパの影響、さらにその日本との比較に説き及ぶあたりに梅棹独自の比較文明論の片鱗がみられる。この服装は第一次の欧化の産物であり、「青年たちは、ベレー帽に半そで開襟で、訓練をうけている。」(50ページ) これは第二次の欧化であろうという。「シクロは、オールド・ファッションのお役人をのせて、のろのろと動きだした。」(50ページ)

 パルミラ・ヤシ
 梅棹一行はコンポン・チュナンからプノンペンに向けて車を走らせる。「南に下るとともに、景観はしだいに変化を見せる。灌木林がふえ、パルミラ・ヤシが目立ちはじめている。/パルミラ・ヤシは、水田のまんなかに、幾本もが束になって、すくすくと立っている。それは、南の国の単調な水田の風景に、変化としまりを与えるものである。」(50ページ)
 パルミラ・ヤシは梅棹にとって、1955年にインドに旅行した際からのなじみ深い植物である。タイでも、バンコク近郊ではよく見かけたという。「ずっと古くに、おそらくはモン帝国やクメール帝国がさかえるよりもっとまえに、インドから水田耕作とともにむすびついてはいってきたものだろう」(50ページ)と梅棹は推測する〔パルミラ・ヤシは「オウギヤシ」とも言い、アフリカ原産だそうである〕。

 梅棹は、パルミラ・ヤシがインド人に親しまれている植物であることを『ラーマーヤナ』の中の挿話を引き合いに語る。愛する妃であるシータを魔王に奪われたラーマ王子は、彼女を取り戻すために遍歴を続けるのだが、その時に、パルミラ・ヤシを見てシータの胸のふくらみを思い出し、涙するというのである。東南アジアの「小乗仏教世界」(さっきはテラワーダ仏教といい、今回は小乗と書いていて、一貫しない)はインドから米作とパルミラ・ヤシだけでなく、『ラーマーヤナ』も受容しているという。ただし、カンボジア版の『ラーマーヤナ』でパルミラ・ヤシの挿話がどのように扱われているかは知らないとも書いている〔正直である。しかし、『ラーマーヤナ』は岩本裕によれば、「小乗」仏教世界だけでなく、東南アジアの大乗仏教が盛んなベトナム、イスラーム教が優勢なインドネシアにも広がっていて、インドネシアの影絵芝居であるワヤンの演目ともなっている。さらに、中国や日本の説話集にもこの物語について記したものがある由である〕。
 ある小さな町で、一休みした際に、露店でパルミラ・ヤシの樹液が売られているのを見たし、さらに樹液を採取している現場も見たようである。日が暮れて、午後7時ごろにプノンペンに到着する。
 こうして第12章が終り、次回から第13章「ゾウと王さま」に入る。プノンペンとその周辺の見聞が記されている。
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