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『太平記』(290)

11月26日(火)雨が降ったりやんだり

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)、楠正成の子正行が、父の13回忌に際して挙兵し、8月、河内藤井寺で細川顕氏の軍を破った(史実は、貞和3年、以下の出来事も実は1年前に起きている)。11月、正行は住吉、天王寺で、山名時氏と細川顕氏の軍を破った。12月、高師直・師泰兄弟が楠討伐に向かった。死を覚悟した正行は、吉野に赴いて後村上帝に謁し、如意輪堂の壁板に一族の過去帳を書きつけた。翌正月5日、正行は四条畷の合戦で師直軍を追い詰めたが、上山左衛門の身代わりで師直は難を逃れた。正行・正時兄弟は戦死し、師直軍は吉野へ押し寄せた。このため、後村上帝と南朝の人々は、吉野を去り、さらに山奥へと落ち延びたのであった。

 南朝の朝廷が吉野を去って、山中を逃げまどっているうちに、高師直は3万余騎の軍勢を率いて、吉野へと押し寄せ、3度鬨の声をあげたが、すでに人々が逃げ去った後なので、こたえる声はなかった。それならば焼き払ってしまえということで、皇居や側近の貴族たちの宿所に火をかけた。折からの強風にあおられて、2丈(約6メートル)の高さのある笠鳥居、2丈5尺(約7.5メートル)の高さの金鳥居、二階建ての仁王門、蔵王堂近くの天神宮、72間(約130メートル)の回廊、三十八所神社、宝蔵、竈神を祀る神社、蔵王堂の本尊である蔵王権現の三尊の社壇まで一時に灰燼となり、煙が空に立ち昇った。あさましいことかぎりのない情景であった。
 この時代は神仏が習合していたので、南朝が頼りにしている金峯山寺にも鳥居があったり、仁王門があったりする。岩波文庫版の脚注には笠鳥居は金峯神社の鳥居(修行門)か、金鳥居は、総門と蔵王堂の間の銅製の大鳥居(発心門)と記されている。実は吉野に出かけたことがあるのだが、何せ60年以上昔のことなので、ほとんどのことを忘れてしまった。ただ、蔵王堂の規模の大きさに感心したことだけはかすかに記憶している。

 さて、北野天神の社壇がなぜ吉野にあるのか。延喜13年(西暦913年)に吉野の奥にある大峯の笙の岩屋で修業をしていた日蔵上人が頓死するという出来事があった。すると蔵王権現がその左の手に上人を乗せて、地獄の閻魔王の宮殿へと連れて行った。閻魔庁の役人の1人が、上人に倶生神(くしょうじん)を1人付き添わせて、六道(衆生が輪廻する6種の世界:地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)を見せた。倶生神というのは人が生まれた時から常に両肩のところにいて、その人の一生を閻魔王に報告する男女2神である。ここではそのうちの1人が随行することになっている。
 こうして地獄の中の鉄窟苦所(てっくつくしょ)というところにやって来ると、溶けた鉄が湯のようになっているところに、玉のを被り、天子の装いをした罪人が苦しんでいるのが見えた。その罪人が手を挙げて上人を招いている。どんな罪人であろうかと不思議に思いながら、近づいてその顔を見ると、延喜の帝(醍醐帝)であった。

 上人は、御前に跪いて、陛下はご在位の折に、外には五常(仁・義・礼・智・信の5つの徳)を正しく保たれて仁義を専らにし、内には五戒(殺生・偸盗・邪婬・妄語・飲酒をしないという5つの戒)をお守りになって慈悲を心がけて政治にあたられたので、十地等覚(じゅううじとうがく=仏になる一歩手前の、菩薩の修業の最終段階)の位に到達されるであろうと思っておりましたのに、なぜこのような地獄に堕ちるようなことになられたのですかとたずねた。
 すると、帝は涙を流されながら、私が在位の間、帝としての総ての職務を怠りなく果たし、民衆をいたわって治世を行えば、何事も間違いないはずであったが、藤原時平の讒言を信じて、無実の罪で菅丞相(菅原道真)を左遷したために、この地獄に堕ちたのである。上人は、いま、冥土に滞在しているが、これは定業(じょうごう=前世から定まった宿命)ではないので、生き返るはずである。私と上人との仏道における師弟関係は浅いものではない。上人は早く娑婆に生き返って、すぐに菅丞相の廟を建てて、衆生を導き利益を施してほしい。そうすれば、私はこの苦しみを逃れることができるだろうと、泣く泣くおっしゃったので、上人はそれを詳しく承ったということで、吉野山に廟を建てて、衆生に恩恵を与えるようにした。これが天神の社壇の由来である。

 蔵王権現というのは、昔修験道の祖とされる役小角(えんのおづぬ)が衆生を救済するために金峯山に一千日籠って生身(しょうじん=肉身)の像を現出させようと祈ったところ、この金剛蔵王はまず柔和忍辱(にゅうわにんにく=温和で怒らず耐え忍ぶこと)の相を顕わされて、地蔵菩薩のお姿で地から湧き出られた。役行者はその頭を押さえて、これからは末法の世の中になるので、そんなおやさしいお姿では人々を導くことはできそうにありませんと申しあげたところ、像は伯耆国の大山へと飛び去って行かれた。そして激しく怒った姿に様子を変え、右のお手には密教の法具である三鈷(さんこ)を握って肱を怒らせ、左のお手には5本の指を組み合わせて(印を結んで)お腰を押さえられた。激しく怒った姿で睨みつけて、仏道を妨げる悪魔をとり鎮める神の姿をされ、一方の足を高く上げ、他方を低くして、天地を秩序づける威徳を顕わされた。〔文章だけだとわかりづらい。〕
 お姿の顕わし方が尋常の神仏のそれとは違い、またお姿を錦の帳の中にお隠しになろうとしないので、この世に現れた姿を隠すために、役行者と天暦帝(村上帝)がそれぞれ脇侍となる二尊の像を造り添えて、三尊として安置することとした。悪愛(おあい=忿怒と慈愛)を日本中に示し、人々の是非を正し、全世界に賞罰を明らかにして、煩悩にとらわれる人を懲らしめ、物事を糺した。仏が神として顕れた例は多いが、蔵王権現こそは衆生利益のあらたかなことは、他にまたとない霊妙な神である。

 このような不思議な霊験を持つ社壇を一度に焼き払ってしまうことを、悲しまない人がいただろうか。だからこそ、この知らせを聞いた人々は大いに悲しんだのであるが、その一方でこういう悪事を働く高師直は、間もなくその命運が尽きて滅びることになるだろうと思わない人はいなかったという。

 こうして第26巻は終わる。師直に追われて吉野を去る南朝の人々の姿を描いた後に、霊場を焼き払う師直の悪行と、吉野がどのような理由で霊場となったのかを語る2つの説話が語られる。
 無実の菅原道真を左遷したことにより、醍醐帝が地獄に堕ちたという説話は、『北野天神縁起絵巻』にも描かれている。東御苑の三の丸尚蔵館に『北野天神縁起絵巻』が複数収納されているのは、すごいなあと展示を見て感心した記憶がある。その一方で、醍醐・村上二帝の時代は摂政・関白を置かずに帝が親政されたため、「延喜天暦の治」として理想化する人々もいた。日本の中世というのは、一筋縄では語れない時代なのである。〔『太平記』とほぼ同時代に書かれた(少し先行する)ダンテの『神曲』にはローマ教皇の一人が地獄に堕ちている姿が描かれているのも注目に値することである。〕
 帝王の守るべき徳として、儒教的な五常と、仏教の五戒が並置されていること、蔵王権現の信仰が神仏混交であることなど、中世人の世界観が様々な要素を結びつけながら、独自の世界を構築するものであったことも注意する必要があるだろう。  
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