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ラブレー『ガルガンチュワ物語』(26)

11月22日(金)雨

 ガルガンチュワはフランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの間に生まれ、生まれるとすぐに「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことからこの名を得た。もともと大きな体の赤ん坊だったが、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと成長し、またもともと明敏な頭の持ち主であったが、新しい学問と教育法を身に着けたポノクラートという先生についてパリで勉強した結果、学芸と武勇の両方に秀でた若者となった。
 グラングゥジェ王と隣国のピクロコル王との間に些細なことから戦争が起き、ピクロコル王の軍隊が国内に侵入してきたので、グランぐぅじぇはがルガンチュワを呼び戻す。故郷に戻ったがルガンチュワは、ポノクラートやその他の家臣たち、父親の家臣たち、それに自分の修道院のブドウ畑を一人で守ったジャン修道士らの助けを借りて、ピクロコル軍を壊滅させる。勝利を得て、平和を取り戻したがルガンチュワは、功労のあったものに領地を与えたが、ジャン修道士はこれまでになかったような新しい修道院の建設を願い出て、許される。そして、ロワール川沿いのテレームという場所に大修道院が建設される。

第55章 テレミートたちの館はいかなるものであったか(テレームの住人の館について)
 テレームの修道院は6角形の建物であることは前回に述べたが、その中庭の中央には噴水が設けられ、三美神の像が水を噴き出していた。中庭に面した建物には、回廊が設けられ、珍しい動物の絵や、その角、牙などが飾り付けられていた。
 男女がともに居住する修道院ではあったが、両者は別の建物で寝起きすることになっており、女子の寮舎の前には、スポーツや遊戯を楽しむ空間や円形劇場が設けられていた。
 川(ということはロワール川であろう)のすぐそばには美しい遊園地があり、その中央には見事な迷路が設計されていた。また打球戯(ジュ・ド・ポーム、宮下さんは「テニス」と訳しているが、今日のテニスとスカッシュの両方のもとになる球技である)と蹴鞠(渡辺訳、宮下訳ではボール遊び、サッカーとラグビー、その他が分離していくのは19世紀に入ってからのことである)をする場所があった。

 さらに火縄銃や弓や弩(いしゆみ)の射的場、厩、鷹狩のための鷹の飼育場、猟犬小屋などが設けられていた。また婦人たちの宿舎の広間の出口には、香料係や結髪係が控えており、女性たちを訪ねる男性たちの取次役も務めていた。

 つまり、テレームの大修道院の住人たちは生産労働に従事せず、遊び暮らしていたのである。修道院と言いながら、その内実は宮廷や騎士の居館に近い。マリー=ルイズ・ベルネリは、「テレームの修道院」をその『ユートピアの思想史』の中に含めて論じたが、そこで描かれている生活は、ルネサンス時代の王侯貴族の理想像であって、モアやカンパネッラの描くすべての人々が生産労働に従事する世界とは縁遠いことも注目しておく必要があるだろう。テレームの修道院には修道者たちのほかに、彼らに奉仕する召使の存在が描かれていることも見落としてはならない。

第56章 テレームの僧院の男女の修道者たちはいかなる衣装を身に着けたか(テレームの修道院の男女の服装について)
 修道院がはじめられたころには、女性たちは、それぞれ思い思いの衣装を着けていたが、その後、「一同の自由な意志によって」(渡辺訳、244ページ)制服のようなものが決められた。ここでは詳しく書かないが、それは極めて豪華なもので、流行に従って仕立てられ、決められた枠の中で自由に着こなすことができた。男子も同様に豪華な服装をしていた。
 修道士・修道女たちの衣服や装身具を提供するために巨大な工場が設けられ、そこで職人たちが腕を振るっていた。そして材料はある帰属によって海外から提供されたのである。

 この物語は58章からなり、本日のうちに最終章まで進めるつもりだったが、パソコンの調子があまりよくないので、紹介はここまでにしておく。ラブレーはエラスムスとともに、モアの著作にも親しんでいたはずであるが、彼の描く人間模様は、モアとは大きく異なることが理解していただければ幸いである。
 パソコンの調子がいまいちよくわからないこと、明日、明後日は外出の予定があることで、皆様のブログへの訪問が粗略になるかもしれませんが、悪しからずご了承ください。

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