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細川重男『執権』(3)

11月21日(木)晴れ、温暖

 もともと伊豆の小豪族に過ぎなかった北条氏が鎌倉幕府の執権として将軍位を左右するほどの権勢を持ちながら、なぜみずから将軍に就任しなかったのかという問題を、執権職に就いた人物の代表例として北条義時と、時宗を取り上げ、その人物と仕事ぶりを検討しながら、鎌倉幕府の性格、とりわけ権力構造の変化について考えていく。
 北条氏は、時政の娘政子が頼朝と結ばれたことから、頼朝挙兵の当初から源氏の棟梁にしたがって行動した。緒戦の山木攻めには勝利したが、石橋山の合戦で大敗、その際、時政と次男の義時は土肥郷に逃げ、長男の宗時は別方向に逃げたが殺害された。こうして義時は時政の最年長の男子となったが、家督継承者とはみなされなかったようである。しかし、源頼朝には厚遇され、近侍して警護に当たる家子としての扱いを受けていた。このことが、その後の彼の地位に大きな影響を与えることになる。(第2章「江間小四郎義時の軌跡」の途中までの要約)

第2章 江間小四郎義時の軌跡(続き)
 覇権への道
 何もしない人
 義時が覇権への道を歩みはじめたのは、要するに彼が「何もしない人」であったからというのが細川さんの意見である。ほかの人たちが動き回っているときに、何もしない。もっとも動き回っても不思議ではないような地位にあって、動かないことでその存在感を発揮したということで、地位が低くて何もしないということであったならば、覇権への道を歩むなどということはないはずである。

 石橋山の合戦後、時政・義時父子は安房に逃れて頼朝に合流したが、すぐに甲斐源氏との同盟締結の使者として甲斐に派遣された。交渉力に長けた時政が主役で、義時はそのボディ・ガードに過ぎなかったものと推測される。(史料である『吾妻鏡』にその名がほとんど出てこないのである。) 源平合戦には範頼・義経の幕僚として参加したが、目だった武功もあげず、占領地行政で活躍するということもなかった。奥州合戦でも同様である。しかし、この間、頼朝に近侍して親衛隊長的な地位を与えられてきたのは既にみたとおりである。

 この間の目だった出来事として細川さんが取り上げているのは文治5(1189)年に起きた源頼朝の愛人をめぐる騒動の際に、北条時政の舅にあたる牧宗親が頼朝の怒りを買って辱めを受けたことに、今度は時政が怒って居ずに引き上げてしまったことがあって、その際に、頼朝が義時は父親に同調せずに鎌倉にとどまっているだろうといって、留まっていることを確認したうえで呼び寄せて、軽挙妄動をしなかったことをほめたという出来事である。細川さんは次のようにまとめている:
 「要するに、浮気が元で起きた夫婦ゲンカに端を発するバカバカしい家族のモメ事である。義時もそう思ったのではないか。
 ところで、頼朝時代の数少ないエピソードであるこの話でも、義時は何もしていない。夜、家にいたら、呼びつけられて褒められただけである。
 むしろ、この積極性のなさが、義時の人生の特徴である。本人は何もしていないのに、まわりで大騒ぎがおこり、義時が巻き込まれるというのは、そもそも頼朝挙兵にも通じるが、同じようなことが、この後何度も何度も繰り返されるのである。」(66ページ)

 陰惨な権力闘争
 義時が37歳の正治元年(1199)、源頼朝が53歳で没する。鎌倉殿の地位は直ちに長男で18歳の頼家に継承されたが、この年の4月に御家人の13人合議制が成立し、頼家は執政をとめられる。この13人の中に時政・義時父子が入っているが、父子で入っているのはこの一例だけである。〔この件については、前回=10月30日の項で触れるべきであったのが、見過ごしていた。なお、この13人は大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、梶原景時、足立遠元、安達盛長、八田知家、比企能員、北条時政、北条義時、三浦義澄、和田義盛である。なお、三浦義澄と和田義盛は叔父=甥の関係である。〕
 しかし結合の中心となる頼朝の存在が失われた後の御家人たちの利害の対立は激しく、鎌倉幕府は相次ぐ内紛・抗争に見舞われることになる。そしてその一連の抗争の最終的な勝利者が北条義時なのであった。

 以下、順を追ってその経過をたどってみよう:
①正治元年(1199)8月 安達景盛討伐未遂事件
②正治元年10・11月 梶原景時弾劾事件
③正治2年正月 梶原景時滅亡
④建仁元年(1201)4・5月 越後城氏の乱
⑤建仁3年5・6月 阿野全成誅殺事件
 頼朝の異母弟〔義経の同母兄〕阿野全成(あのぜんじょう)は北条時政の女婿となっていたが、反意ありとして頼家の命令により逮捕され、配流ののち、殺害された。〔これで、頼朝の兄弟は全滅したことになる。よせばいいのに…と思うのは私だけであろうか。〕
⑥建仁3年9月 比企の乱
 頼朝の乳母比企天野一族比企能員は、頼家の妻若狭局の父として権勢を誇っていた。頼家が重病で危篤となったことを好機とした北条時政は自邸に能員を誘い出して暗殺、同時に義時を先頭とする御家人たちの軍勢が若狭局の生んだ頼家の嫡子一幡の館「小御所」を襲い、立てこもっていた比企一族は若狭局・一幡とともに滅亡した。その後回復した頼家は抵抗を試みたものの失脚し、伊豆国修禅寺に幽閉され、弟実朝が12歳で三代将軍となった。この事件によって、時政は大江広元とともに政所別当に就任し、一挙に幕府の最高実力者となった。
⑦元久元年(1204)7月 源頼家暗殺
 時政の命により、修禅寺の配所で頼家が殺害された。

 この間の過程で、権力奪取を目指して動いているのは時政であって、義時は動かないか、父の配下で兵を動かしているだけである。さらに権力抗争は続くが、それはまた次回以降に取り上げていくことにする。
 
 
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