FC2ブログ

木村茂光『平将門の乱を読み解く』

11月14日(木)曇りのち晴れ、温暖

 11月13日、木村茂光『平将門の乱を読み解く』(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー)を読み終える。
 武士の最初の反乱といわれる平将門の乱(正平5年 <935>~天慶3年<940>)は日本史上まれに見る大事件であった。その理由として著者は、将門が「新皇」を宣言して、坂東8か国の国司を任命し、新たな「王城」の建設を企てるなど、皇統に関わる事件であったこと、これに対して朝廷の側が「王土王民」(地上にあるすべての土地は、天命を受けた帝王のものであり、そこに住むすべての人民は帝王の支配物であるという思想)の考え方を振りかざしてその鎮圧に向かったという2点において、注目すべき性格をもつと考えている。さらにもう一つ、注目すべき事柄として、将門が「新皇」を宣言した時に、それが菅原道真の霊魂と八幡大菩薩の意志に基づくものであると根拠づけられていることが挙げられている。この両者はともに、律令体制のもとでその地位を確認された神格ではないというところに、新しい秩序の創造への意志がみとめられるのである。

 この書物では、平将門の乱の歴史的あるいは宗教史的な意義が問題として取り上げられ、この時代における政治制度や社会の変化、そのなかでの国家的な神器体系の変化、さらに王土王民思想に代表される国家的イデオロギーの発現などに焦点があてられる。将門の乱の経緯や、将門の武士としての性格、合戦の具体像については詳しくは論じられていない。また、この事件の解明に当たって重要な史料は『将門記』であるが、不完全な形でしか伝わっていないので、慎重な取り扱いが必要であることが述べられている。以下、この書物の構成を紹介しておくことにしよう:

「平将門の乱」とは何か――プロローグ
平氏一族内紛の要因 「女論」か「遺領争い」か
 一族内紛の要因はなにか
 筑波山西麓の政治的位置
 乱後の筑波山西麓の政治的位置
 平氏一族内紛の要因
国府襲撃と平将門の政治的地位 「移牒」と「営所」の評価を中心に
 「国府襲撃」事件の経緯
 将門の政治的地位(1)――「移牒」の性格を中心に
 将門の政治的地位(2)――「営所」の性格を中心に
「新皇」即位と八幡神・道真の霊
 「新皇」即位の歴史的意義
 平安京における道真の怨霊と八幡神
 関東における道真信仰
 平将門の乱と中世的宗教秩序の形成
 「新皇」即位と八幡神・道真の霊
「新皇」即位と王土王民思想
 9世紀後半・10世紀前半の王権の揺らぎ
 「新皇」即位と天命思想・皇統意識
 「新皇」即位と王土王民思想
 「新皇」即位の歴史的意義
「冥界消息」と蘇生譚の世界
 『将門記』の「冥界消息」
 「冥界消息」中の識語と構成
 将門の子孫の冥界譚と伝説
 将門の「冥界消息」と将門の乱
「新皇」将門の国家構想――エピローグ

 今回は、「『平将門の乱』とは何か」の末尾に、簡単にまとめられたこの乱の経緯を更に簡単に紹介して、次回からこの書物の内容を本格的に検討していきたいと思う。 
(1)平氏一族の内紛
 平将門は、桓武天皇の曽孫とされる高望王の孫で、父良持は鎮守府将軍であった。〔平氏は源氏と並んで有力な賜姓皇族であり、桓武天皇の子孫である桓武平氏のほかに、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏があるが、桓武平氏のほかは振るわなかった。桓武平氏はさらに、葛原親王の子である高棟王の子孫で公家として続いた流れ、高望王の子孫で武家として活躍した流れなどに分かれる。ちなみに国語の教材に出てくる歌物語『平中物語』の主人公平貞文は桓武天皇の皇子仲野親王の曽孫である。〕 将門を含めて、この一族は9世紀後半東国の治安維持のために派遣された「一種の辺境軍事貴族」であったと評価されている。
 将門は若いころ、摂関家の藤原忠平(菅原道真左遷事件の主犯で若くして死んだ時平の弟)に仕えたことがあったようだが、都でしかるべき地位に就くことができず、再び関東に戻り下総国猿島郡石井(いわい)を本拠にしていた。ところが延長年間(923~30)になると、一族との間に不和が生じ、内紛が勃発する。はじめは伯父良正と血縁関係のある源護らとの間に筑波山西麓で戦闘が続いたが、これらの合戦で、もう一人の伯父国香らが死に、良正は、上総国にいた兄弟(将門の伯父良兼の参戦を要請、このため戦線は一挙に拡大し、常陸・下総から下野国国境付近まで広がった。
 この間、源護の告訴状によって将門は京都に召喚されたが、運よく恩赦に会い、無事下総国に戻ることができたので、再び、良兼との合戦が始まった。全体として戦いは将門に有利に展開し、良兼も死亡して、事態は沈静化するかに見えた。
 ところが、武蔵の国で内紛が起き、将門はその調停に向かったが、武蔵介である源経基(清和源氏の家祖であるが、将門の乱の経緯に関してみる限り、武門の棟梁としての面影は見られない)が、将門と武蔵の権守であった興世(おきよ)王と将門が自分を打とうとしていると誤解、急遽上洛して2人の謀反を太政官に奏上した。すぐに、元の私君太政大臣藤原忠平から事の真相をただす文書が届いたが、将門は無実であるとの申し開きに成功した。
 これに続き、今度は、常陸の国で豪族の藤原玄明(はるあき)と、介の藤原維幾(これちか)が対立し、玄明が将門を頼って逃げてくるという事件が起きた。〔常陸国は親王任国なので、介というのは実際上の長官である。〕 維幾は将門に玄明を追捕するように移牒(書状)を送ったが、将門は応えなかった。それどころか、玄明が維幾の悪政を述べて味方するように訴えたのに同意して、維幾に対して、玄明を追捕すべきではないという書状を送り、結局、両者の間に戦闘が起きて、将門軍は常陸国府軍を破り、維幾らは捕らえられ、国司の印と国倉(国富の財源を収めた倉)の鍵を将門に奪われてしまった。これは明らかに国家に対する反乱と見なされる。
 将門のもとに身を寄せていた興世王はこの際、関東全域を支配して、しばらく様子をうかがってみてはどうかと将門に反乱の拡大を勧め、将門も自分は桓武天皇の子孫であるからゆくゆくは京都まで支配したいと述べて、下野、上野の国府もおそい、それぞれ国司を追放して、その印を手中に収め、両国も支配下におさめた。

 このようにして彼が上野の国府に入り、態勢を整えていた時に、ある巫女が八幡神が菅原道真の霊を通じて将門に天皇の位を与えるとの託宣を下し、これを知った興世王は大いに喜び、将門もそれを受け入れて、都の藤原忠平に自分が「新皇」として即位するという書状を送るに至る。こうして彼は東国国家の建国に踏み切った。
 朝廷は仏神に将門の調伏を願う一方で、将門に殺された平国香の子である貞盛と、下野の豪族藤原秀郷は将門と対立し、両者は天慶3年に対戦、当初は風上にあった将門軍が優勢であったが、風向きが変わって戦況が一変し、貞盛・秀郷連合軍が将門を破り、その首級を挙げた。
 こうして反乱は平定されたが、将門については様々な伝説が語り継がれていったのである(その一端が、この書物で取り上げられている「冥界消息」である)。

 この書物は
①平氏一族の内紛の原因は何であったのか
②将門はどのような政治的な地位を持っていたために、国府の襲撃などの行為を起こすことができたのか
③将門の「新皇」即位に際して、八幡神と道真の霊魂が登場したことにはどのような政治的・思想的な背景があったのか
④将門が「新皇」に即位したことにはどのような歴史的意義があったのか
⑤『将門記』の最後には、彼の「冥界消息」が記されているが、これにはどのような思想的な背景があるのか。
といった問題を取り上げて論じるものであるという。その具体的な内容については、次回以降で検討を加えることにしたい。

 平将門というと、思い出すのは(もう60年以上昔のことなので、はっきりした記憶はないが)、私よりも48歳年長の義理の伯父が日本史学者として昭和天皇に自分の研究について進講した経験を話してくれたことである。どんな話をしたか、ということについてはすでに記憶がない。ただ、その後で、昭和天皇が伯父に次のような質問をされたという話が記憶に残っている。「平将門は悪い奴である(まあ、そんな下品な言い方はされなかっただろうが)のに、なぜ、神として祭られているのか」という質問である。この質問が、伯父の進講内容とどのようにかみ合っていたのか、という点で疑問が残るのだが、一般論としては鋭い質問である。この木村さんの著書を読んでいると、平将門の乱がその時代の朝廷を震撼させた際に、天皇やその周辺の人々が抱いた危機感が、昭和天皇にまで伝えられているような気がした。 

 10月30日(水)は細川重男『執権』、11月7日(木)は梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』、今回は木村茂光『平将門の乱を読み解く』と、違う本を取り上げているが、これはブログを書こうという段になると、『執権』が見当たらないというお粗末な舞台裏に基づくものである…それで、具体的にどういうことになるかはわからないが、適当に掲載間隔を工夫しながら、これら3冊の本の紹介を続けていくつもりなので、ご了承ください。
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR