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『太平記』(288)

11月12日(火)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)、楠正成の子正行が、父の13回忌に際して挙兵し、8月河内藤井寺で細川顕氏の軍を破った(史実は貞和3年のことである。以下、すべて史実では1年早く起きた事柄である)。さらに11月、正行は住吉、天王寺で、山名時氏と細川顕氏の軍を破った。12月、高師直・師泰兄弟が楠討伐に向かった。死を覚悟した正行は、吉野に赴いて後村上帝に謁し、如意輪堂の壁板に一族の過去帳を書きつけた。あくる正月5日、正行は四条畷の合戦で師直軍を追い詰めたが、上山左衛門の身代わりで師直は難を逃れた。

 さて、楠正行は、多年の宿願である高師直の首を取ったと喜んで、その首をよくよく見てみると、師直ではなかったことが分かったので、大いに怒ってその首を傍らに打ち捨てたが、彼の弟の次郎正時が「(だまされたという気持ちはわかるが)そうはいっても、(主君の身代わりになって死ぬという)剛勇の志は立派なものではないですか。ほかの首とは区別して置いておきましょう」と彼の小袖の袖を切りとって、上山の首を包んで、少し高いところに置いた。

 楠方の河内の武士であった鼻田与三は膝がしらに矢を深く射られて、動くこともままならぬまま立っていたが、この様子を見て次のように叫んだ。「さては師直は討ち取られなかったのだ。どうも安心できないな。師直はどこにいるのだろうか」と、兜の中に髪が乱れかかるのを払いのけながら、血眼になって北の方角を見つめた。すると、輪違の高家の紋を示す旗が一流れ見えて、その近くに身分の高そうな老武士の姿が見え、その近くに7・80騎の武士たちが控えていた。
 「あそこにいる武士は、たしかに師直と思われる。さあ、出かけて行って討ち取ろう。」 すると、楠一族の和田橘六左衛門という武士が引き留めていった。「少し考えてみた方がいいぞ。功を焦って、大事な敵を撃ち漏らすということがあってはいけない。敵は騎馬で、こちらは徒歩である。こちらが追いかければ、向うは逃げるだろう。そういうことになれば、我々はとても追いつき、討ち取るということはできない。だから策をめぐらせるべきだ。われわれがわざと退却をする様子を見せれば、敵は調子に乗って追いかけてくるだろう。敵を近くにおびき寄せておいて、その中で師直だと思われる武士の馬の脚を薙ぎ払い、落馬したところで首をとればよい。」 戦死せずに残っていた50人あまりの武士たちは、この意見に同意して、楯を背中に宛てて、退却する様子を見せ始めた。

 高師直は老練な武将なので、この程度の作戦に引っかかって、馬を進めるというようなことはしなかったが、彼の猶子である師冬(実は師直の従弟である)は西側の田んぼの中に300騎ほどの部下を率いて待機していたところ、敵が退却する様子を見せたので、全滅させてしまおうと兵を率いて襲い掛かった。楠勢は決死の覚悟をしていたので、師冬の軍勢を近づけるだけ近づけさせておいて、一気に反撃し、大きな被害を与えた。師冬はこれはかなわないとみて、退却したが、もといた陣から20町以上(約2.2キロ)も遠くに移ったのである。

 こうして楠軍と師直との間隔は、再び1町(約100メートル)あまりに縮まり、いよいよ思っていた敵を追い詰めることができたと、楠軍の武士たちの気は急くのであるが、これまでの戦いの疲れと、戦いで受けた傷が災いして、思うように体を動かすことができない。しかも楠軍は徒歩立ち、師直軍は騎馬である。とはいっても、10万余騎と呼号していた師直・師泰の軍は四散してしまい、師直の旗本には7・80騎ほどしか残っていないのだ、と勇を鼓して前進しようとする。和田、楠、野田(河内国丹比郡野田荘=堺市内の武士)、禁峯(きんぷ、不詳)、大和の三輪神社の神主である関地西阿(せきじのせいあ)、その子息の良円、河辺石菊丸(かわのべのいわきくまる、大阪府南河内郡赤坂千早村川野辺に住んだ武士)らが、じりじりと前進を続ける。

 このように何があっても動じることがなくひたひたと迫ってくる決死の軍勢に恐れをなして、さすがの師直も退却しようという気配を見せ始めたときに、九州出身の武士で鱸四郎という強い弓を矢継ぎ早に射る名手が馬から飛び降りて、逃げていった武士たちの捨てていった箙、尻籠(しこ、箙も尻籠も矢を入れる容器である)を拾い集めて、(矢を集めて)楠軍に向け散々に射かけた。和田源秀は7か所も傷を負った。楠正行も何本も矢を受けた。さらに一騎当千と頼みにしてきた武士たち113人も何か所にも傷を受けてしまっていた。

 馬はすでに解き放してしまった。戦いで疲労は限界に達している。いまはこれまでと思ったのであろうか、楠正行と、その弟の次郎正時、和田源秀の3人は立ちながらお互いに刺し違えて、倒れ伏した。吉野の如意輪堂の壁板に名を連ねた143人のうち、63人がまだ生き残っていたが、「今はこれまでだ。さて、皆の衆、同じ冥土に赴こう」と同時に腹を切って果てたのである。

 正成の甥、正行の従弟、源秀の兄である和田新兵衛行忠(別の個所には高家となっている)はなにを考えたのだろうか、たった一人で、鎧の一そろいを着て、右の脇に太刀を挟み、敵の首を一つもって左手で下げて、この頃はやっていた小歌を歌いながら、徒歩で東条(大阪府富田林市、楠の根拠地)の方角へと歩いて行こうとした。
 これを見た安保肥前守忠実(武蔵七党の丹党の武士、埼玉県神川町出身)がただ一騎で追いかけて、「和田、楠の人々はみな自害されたのに、見捨てて一人で落ちのびようとするのは見苦しく思われる。戻ってきて、勝負しなさい」と声をかける。和田はにっこりと笑って、「戻って勝負するのは簡単だ(自分の方が勝つにきまっている)」と4尺6寸の大刀が血まみれになっているのを打ち振って走りかかる。忠実は、一騎打ちでの勝負では敵わないと思ったので、馬の首をめぐらせて逃げ出す。忠実が止まると、行忠はまた落ちて行く。落ちて行けば、忠実はまた追いかけて、討ち取ろうとする。追えば返し、返せば止まり、とうとう1里(約4キロ)あまりを進む間、お互いに討たれぬままであり、次第に日没が近づいてきた。どうやら、討ち取ることはできないままに終わりそうだと忠実が思っていると、同じく丹党の武士である青木次郎(埼玉県飯能市の武士)と小旗一揆に加わっていた長崎彦九郎の二騎が箙に少し矢を残して追いついてきた。彼ら2人は新兵衛を自分たちの左手において、馬上から矢を射かけたので、新兵衛はその体に何本も矢を受け、ついに忠実に首を取られたのであった。

 こうして四条畷の戦いは、楠正行軍の全滅で幕を閉じた(もっとも、その前に、後陣の兵は逃げかえっているので、楠一族の活動は今後も続くことになるのである)。まことに壮絶な戦いぶりであったが、南北朝の力関係を逆転させることはできなかったのであり、吉野の後村上帝が正行に言われたように、生きて戻って帝を助けることを考えた方がその後の情勢の変化を考えるとよかったのではないかと思われる。実際に、正行の戦死後の吉野の朝廷は大へんな状況に陥るのであるが、それはまた次回に。 
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