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ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(3)

11月9日(土)晴れ、温暖。

 元老院、政務官、民会の3者からなる共和政によって成立していたローマであるが、カルタゴとの戦争に勝利し、その後も領土の拡大が続く中で、すぐれた軍事指導者が同時に政治的な指導者として期待されるようになってきた。紀元前1世紀にはいると、従来からの門閥を背景に勢力を築いたスッラと、民衆の支持を得て台頭したマリウスの抗争が続き、この戦いに勝利して独裁権を確立したスッラの後、次の世代の軍閥が台頭した。すなわち、ポンペイウス、クラッスス、カエサルである。彼らは互いに連合することで元老院を抑え、三頭政治によってローマを動かした。しかし、クラッススがパルティアとの戦争に敗れると、この均衡が破れ、ポンペイウスとカエサルの間で内乱がはじまることになる。ローマ白銀時代の詩人ルーカーヌスの未完の叙事詩『内乱』はこの両雄の戦いを描いた作品である。
 ラテン文学史では、キケローが暗殺された翌年(前42年)から、オウィディウスの没年(後17年頃)の約60年間を「黄金時代」と呼ぶ。この時期が、後に「アウグストゥス」の称号を得るオクターウィアーヌスの政界での活動期とほぼ一致するので、「アウグストゥス時代」とも呼ばれる。この時代の初めごろは、ウェルギリウス、ホラーティウスらの詩人が活躍し、後半になるとオウィディウスの独壇場となる(この3人がいずれも『神曲』『地獄篇』に登場する6大詩人のうちに含まれていることを思い出してほしい)。
 紀元後14年、アウグストゥスは病死した。この年から、五賢帝の最後の皇帝であるマルクス・アウレーリウス帝の治世の終る180年までの文学を「白銀時代」という。これはギリシア以来の下降史観に従った、理想的な「黄金時代」の直後の時代を呼ぶ名称であるが、「それを単に劣った時代、と解釈するのではなくて、それなりの価値、魅力をもった時代、と考えるほうがよい」(松本仁助・岡道男・中務哲郎編『ラテン文学を学ぶ』、180ページに述べられている小林標さんの見解)のである。

 この叙事詩は「内乱にもましておぞましい戦、正義の名を冠された犯罪」という古代ギリシア・ローマの文学の伝統の中では特異な主題を取り上げるものだと、冒頭でルーカーヌスは宣言する。そして彼の時代のローマ皇帝であり、この時点では彼の庇護者でもあったネロへの助力を乞う呼びかけがあり、内乱の原因についての探索が展開される。中でも「同輩を許容せぬ」権力に焦点が当てられ、過去の英雄ポンペイウス、昇竜の勢いのカエサルという両雄のあり方が、前者は「樫の古木」、後者は「雷電」という比喩によって示される。

 クラッススが戦死した時、ポンペイウスはローマにあり、カエサルはガリアに兵を進めて、その地の経営にあたっていたが、兵を結集してローマに戻ろうとする:
はやすでにカエサルは、来たるべき大乱と兵戈(へいか)を心に期し、長駆して、
凍てつくアルペスを越えていた。小流ルビコンの
川岸に達した時、軍を率いるその彼に、暗い夜の闇を通して
まざまざと、悚然(しょうぜん)とした祖国の巨大な幻影が見えた。
(184‐187行、29ページ)
 この時代、イタリア半島西北部を西に流れてリグリア海にそそぐアルノ川と、東北部を東に流れてアドリア海にそそぐルビコン川の2つの川が、イタリア本土と属州ガリア・キサルピナの境界であるとされていた。それで、軍隊を率いてこの境界線を越えることは、祖国への反逆と見なされたのである。
 祖国の幻影は、カエサルに向って、軍を率いて進むことができるのはここまでだという。しかし、カエサルは、自分をローマの敵としたポンペイウスこそ、討伐されるべきだと言い放ち、
・・・決然、戦の遅滞に終わりを告げ、
蒼惶(そうこう)と、水かさ増した小川を渡って、旗幟を前進させた。
(204‐205行、30ページ)
 大西英文さんの翻訳は、いやに難しい言葉を使うところがあり、それが適切とはいいがたい場合があるのが問題である。アルプスといえばいいのに「アルペス」といい、「悚然」というのも見なれない表現である。「蒼惶」というのは「慌てふためくさま」で、ここは慌てて川を渡ったというのではなくて、急いで川を渡ったという意味に受け取るほうが適切であろう。気になるので、プロジェクト・グーテンベルクで英訳を見たところ、
And bids his standards cross the swollen stream.(そして彼の軍旗が水かさの増した流れを横切るように命じる。)
とあって、「蒼惶」に相当する表現はない。(ラテン語原典にはあるのかもしれない。)
 このルビコン川が、現在イタリア半島を流れるどの川であるのかをめぐっては議論があるそうだが、フィウミチーノ川と呼ばれていた川をあてるのが一般的で、この川が現在ルビコーネ川と呼ばれている由である。全長30キロ余り、川幅はいちばん狭いところで1メートル、広いところで5メートルほどというから、たしかに小川である。
 この川を実際に見てきた柳沼重剛によると「ルビコン川というのは、今そこへ行ってみるとがっかりするほど小さな汚い川だ」(柳沼「賽は投げられたか」、『語学者の散歩道』、42ページ)だという。カエサルの言葉として有名なものの1つである「賽は投げられた」(iacta alea est)はこのときの言葉で、スエトニウスの「ローマ皇帝伝」の中の「カエサル」(柳沼は「カイサル」と表記している)の第32節に出て来るのだそうだ。しかし、この言葉が発せられた状況を知るためには、第31節から読んだ方がいいと書かれている。

 さすがのカエサルも軍を率いてルビコンを越えることを躊躇して考えていると、不思議なことがおこった。「身の丈が人なみはずれて高く、姿かたちもきわめて美しい男が忽然と現れ、座って葦笛を吹いているのだ。これを聞こうとして、大勢の牧童たち、それに兵士たちまでが部署をはなれて駆け寄った。その兵士たちの中にはラッパ手の連中もいたが、その美しい巨人は、その一人からラッパを取り上げるや川にむかって走り、胸いっぱいに息を吸い込んで、進軍ラッパを吹きながら向こう岸へと渡った。するとカイサルが云った、≪さあ、行こうではないか。神々のお示しとわれらの敵の呼ぶ所へ。賽は投げられたのだ≫」(以上32節) (柳沼、前掲、44ページ) 
 ルーカーヌスの書いていることは、にわかに信じがたいが、スエトニウスの記述も信じがたいところがある。とにかく、カエサルの率いる軍隊はルビコンを渡った。英語でcross the Rubiconというと「あとに引けない決定的な行動に出る」、「重大な決断をする」という意味で使われる表現になっている。

 小さな源を発し、細流となって下る紅のルビコンは、
炎熱の夏の盛りのころおい、川床を這うがごとくに流れる小流。
だが、ガリアの野とアウソニアの野とを截然と分かつ
国境と定められた。・・・〔しかし、冬なので、水量は増していた〕
・・・まずはじめ、騎兵の隊列が、水勢を受けとめるべく、
流れに向かって筋違いに配置され、次いで、残りの軍勢が、
勢いをそがれ、流れゆるやかとなった浅瀬を渉り、楽々と川を越えた。
(213行‐221行、31ページ)

 そして、ルビコンのすぐ近くの町であるアリミヌムに侵攻した。町の人々は、ガリアにすぐ近くにあるこの町があることを嘆いた。カエサルはローマに近づき、嵐の前の静けさがイタリア半島を覆った。しかし、運命(フォルトゥナ、fortuna)がこの静けさを破ろうとする:
・・・だが、
陽の光が冷たい夜の闇を払うや、見よ、運命が
兵乱に及ぶべきか逡巡する将の心に開戦煽る松明を投げ込み、
兵乱へと駆り立てる刺激を加えて、羞恥の躊躇(ためら)いを残らず
払拭した。将の動乱を正義の戦にしようと、フォルトゥナが腐心し、
兵戟の大義名分を見出してやったのだ。都が二分する中、
元老院が不和を煽る護民官らを、グラックス兄弟の先例を誇って
威迫した挙げ句、法を枉げて、放逐したのである。すでに
進軍をはじめ、都に迫る(カエサルの)旗幟を追うその彼らに、舌を金で売る
蛮勇のクリオが同道した。
(261‐270行、34‐35ページ)
 護民官であったクリオ(Curio)が合流することにより、カエサルの軍は、たんにポンペイウスと対立する将軍の軍ではなく、ローマの民衆の利害を代表する軍となった(もともと、カエサルはマリウスの妻の甥であるから、民衆派であったのである)。クリオについて、上記英訳ではbold, prompt, persuasive (大胆で、機敏で、説得力がある)と表現している。大西訳の「蛮勇」というのと少し違うように思う。さて、クリオを味方に加えて、カエサルは、この後、どのような行動をとるか。それはまた次回に。 
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