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梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(3)

11月8日(金)晴れ、温暖

 10月12日に掲載した第2回の中で、この書物の紹介をしばらくお休みすると書いた。本当はもう少し休んで再出発するつもりだったのだが、他に書くことが見つからないので、とりかかることにする。

 1957年の11月から1958年の3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の派遣した学術調査隊の隊長として、東南アジア諸国を訪問した。この書物は、その際の私的な記録としてかかれたものであるが、東南アジアの自然・社会文化について概観した書物がない時代に発表されたので、多くの読者を獲得した。現在では東南アジアについての書物は多く出されているが、読み返してみても、古典的な価値を失わない著述であると思う。
 この調査隊は、特に北タイを中心的な調査地として選び、熱帯地方における動植物の生態と、人々の生活誌を調査した。旅行の前半の様子を記した上巻では、バンコクで開かれた太平洋学術会議への参加、カンボジアのアンコール・ワット訪問、そして北タイにおける予備的な調査の様子が紹介されていた。下巻の第11章「配置を終る」で、梅棹隊は2手に分かれ、藤岡喜愛(文化人類学)、川村俊蔵(霊長類研究)、小川房人(植物生態学)、依田恭二(植物生態学)の4人は北タイにおける調査を続行、梅棹と吉川公雄(昆虫学、医師でもある)の2人は東南アジアのカンボジア、ベトナム、ラオス3カ国を周遊して調査をすることになった。梅棹と吉川には、外務省留学生の石井米雄が通訳を兼ねて同行することになった。

第12章 歴史の足あと
 第12章「歴史の足あと」はカンボジア旅行の前半を記録したものである。

 特別便所
 「2月12日、バンコク出発。カンボジアに向かう。/こう書くと、その日のうちにでも国境越えになりそうだが、例によって、出発まえはゴタゴタして、日本新聞処を出たのは午後4時である。とにかく、いくらおそくなっても、その日のうちに出発してしまわなければだめだ。あすに延ばしても、あすはあすでまた別なゴタゴタ がおこって、けっきょくまた午後4時ころになるにきまっている。」(35ページ) いざ、出発ということになると、○○を忘れたとか、△△を家(職場)に置いてきたとか、戸締りはどうだとか、いろいろな問題が気になって、出発を遅らせたり、また戻ったりする。そういうことは私にもあるので、よくわかる出発の様子である。特に留守番がいないので、いろいろと気になることがあったはずである。まして、外国から別の外国へ出かけるのだから、たいへんである。

 バンコクから北の方角に車を走らせ、ヒンカンで東におれて、カンボジア、さらにベトナムへと向かう。出発が遅かったので、まだタイ領内のナコーン・ナーヨックに泊まる。そこの中国人のおばさんの経営する宿屋に一泊する。おばさんは戦争中の話をして、自分の宿屋が将校宿舎だったと語る。戦争の話を持ち出されたので、一瞬ドキリとしたが、日本軍の将校たちはいい人たちばかりだったようで、よほど偉い人が泊まる時でないと使わせないという特別便所を開放してくれた。
 同じ宿屋に泊まっているのはタイ人の山林業者がいるだけだった。「その人から、コーラート高原地方の森の話をきいた。テナガザルもいる。野生のゾウがたくさんいるということだった。」(37ページ) 石井が通訳したのだろうが、自分たちの調査の役に立つような情報を常に求めていることがわかる箇所である。

 大草原の孤独の旅
 翌日、一行はカンボジアとの国境に向かう。前年の12月にアンコール・ワットを訪問した際に通ったのと同じ道であるが、その後2か月のうちに、乾季はいっそう深まり、ラテライトの道路の、コーヒー色の砂ぼこりは、ますますひどい。
 国境に達する前に、日本の稲作調査団の大型トラックと行合う。石井に東京外国語大学でタイ語を教えた河辺利夫が乗り込んでいたのは奇遇であった。しばらく話をして別れる。

 「午後3時、わたしたちは国境を越えて、カンボジアに入った。/丘の多いタイ側とちがって、カンボジア領は、広大な草原のつらなりである。道は、ひどく悪い。」(37ページ)
 国境を超えると、日本と同様に車が左側を走るタイとは逆に、カンボジアでは車は道路の右側を走ることになる。運転にいよいよ慎重にならざるを得ない。シソポンで道が分かれ、一方はアンコール・ワットを経由してトン・レ・サップ湖の東北を走り、もう一方はバッタンバンを経由して、トン・レ・サップ湖の西南を走る。12月に走ったのとは別の、バッタンバンに向かう道を行くことになる。

 バッタンバン市
 6時過ぎにバッタンバン市に到着する。「バッタンバンは、大きな、立派な町だった。蛍光灯の街灯が美しくかがやき、通りはにぎやかだった。首都のプノムペンのほかに、カンボジアにこれほどの町があろうとは思ってもいなかった。」(39ページ)
 一行は、カンボジアがフランスの植民地だった時代に、フランス人用に作られた施設であるバンガロウを探して泊まる。
 翌日、梅棹は町を歩く。町は川に沿うていたが、その川は(乾季なので)大方干上がっていた。しかし雨季になれば、大トン・レ・サップ湖の一部となり、この町も湖港の一つになるのだろうと梅棹は推測している。

 町並みはフランス風であるが、中国人の存在が目立つ。商店街はみな、中国人の店である。「ここは、まるで中国である。カンボジア人なんか、どこにいるのかわからない。おびただしい中国人だ。ここは、フランスの植民地であったというよりは、中国人の植民地であったのかもしれない。」(40ページ)
 バッタンバンはポル・ポト派の拠点だったので、梅棹が訪問した時と、現在とではかなり様子が違っていることが推測できる。

 クメール文字
 「町で話されていることばは、もちろんクメール語である。商店の看板も、すべて漢字とクメール文字とがならべて書いてある。新聞も、雑誌も、クメール語である。
 タイからカンボジアに入って、きわ立って変ったと思うことの一つは、文字である。針金の知恵の輪細工みたいなタイ文字は姿を消して、蠕虫がおどっているようなクメール文字になった。」(40ページ)
 クメール語の本(入門書ということであろう)は日本ではまったく手に入らず、バンコクでも入手できなかった。バッタンバンまで来てやっと1冊、クメール文字によるクメール語と、英語・フランス語の対訳のパンフレットを手に入れることができた。
 「クメール文字は、与える印象はタイ文字とまったくちがうけれど、よく見ると、その構造はひじょうによく似ている。じつは、似ているはずである。タイ文字は、クメール文字を改変してつくったものといわれている。そして、そのクメール文字は、インドのデーヴァナーガリー文字からの変形である。」(41ページ) タイ文字を考案したといわれるのは、スコータイ王朝の第三代の王であったラームカムヘーンである。タイの歴史のなかでもっとも偉大な国王の一人に数えられるラームカムヘーンについて、梅棹は第10章で言及しているが、なぜかこの部分ではその名前を出していない。
 文字は共通の起源をもっているが、クメール語とタイ語とは言語系統から見れば、まったく別の言語である。タイ語は、シナ・タイ語族に属するが、クメール語は、南アジア語族に属するとされている。
 やっと本を手に入れることができたくらいであるから、梅棹一行は一言もクメール語を知らないのであるが、幸いなことに、バッタンバン市ではまだタイ語が通じるのである。本屋の店先にタイ語の本が大量に出回っていて、本屋の話では、10日間に300冊くらいは、タイ語の雑誌が売れるという。
 これも、現在では同じ状況が続いているとは考えられない現象である。

 歴史の足あと
 バッタンバンでタイ語が通じるのには訳があって、バッタンバンは、戦争中はタイ領であったのである。1941(昭和16)年にタイ国軍とフランスのインドシナ軍が衝突し、その際に、日本のあっせんによって(あるいは圧力によって)、フランスからタイに、領土を割譲させた。戦争中に、タイはカンボジアからの2州のほかに、ラオスから2州、マラヤから4州というふうに、周辺の領土を併合した。 この辺りの詳しい事情は私も知らないが、タイは日本の同盟国であったので、一種の役得である。しかし、もともとこの書物の第10章に記されているようにラオスはタイの一部であったという経緯があり、戦争中のタイの領土拡張には簡単には理解できない部分があるように思われる。バッタンバンはタイ語でプラタボーンと呼ばれることになり、日本の領事館も設置されたという。

 「しかし、日本の敗戦とともに、みんな御破算になってしまった。タイは、これらの併合領土をさっそくにもとの国に返還した。それはまことにあざやかな返しっぷりであった。」(42ページ) この辺りも、梅棹の記述のとおりなのか、疑ってみる必要があるかもしれない。とにかく、梅棹は、タイとカンボジアという隣り合った国が、この時点ではタイが西側陣営、カンボジアが中立という国際的な立場の違いとともに、反目の歴史を経ながらも、実はお互いに交流に、相互に影響しあってきたことを述べている。
 このような対立は、梅棹の訪問から60年以上の時を経た現在でも尾を引いていて、ASEANなど東南アジア、あるいはより広い意味での極東アジア諸国の国際関係にも影響を及ぼしている。タイはなかなか外交術にたけた国であるが、カンボジアも決して負けてはいないところがあって、経済的な開発が進んでいないからといって、軽視してはいけない存在なのである。梅棹は政治や外交についてはあまり多くを語ろうとしてはいないが、東南アジア諸国の指導者と国民の政治的な力量を軽んじていないことは、この書物を読んでいて感じられることの一つである。

 次回、さらにカンボジアの旅が続く。読んでいて気持ちがいいのは、梅棹はナショナリストであるが、他国のナショナリズムにも敬意を払っていること、タイにはタイの、カンボジアにはカンボジアのナショナリズムがあると考えていることである。いまのところ、カンボジアでは中国人(というよりも華人とか漢人とか言ったほうがいいのかもしれないが)の存在だけが目立っているが、カンボジアのナショナリズムのありかもおいおい明らかになってくるはずである。
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