FC2ブログ

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(2)

11月2日(土)朝のうちは曇っていたが、その後晴れ間が広がる。温暖。

 わずか26歳で皇帝ネロによって自殺を命じられ、この世を去ったローマ白銀時代の詩人ルーカーヌス(Lucanus, 39-65)の未完の叙事詩『内乱』(De bello civili, Pharsalia)は、紀元前1世紀半ばに起きたローマの内乱=「樫の古木」に譬えられる過去の英雄ポンペイウスと、「雷電」に譬えられる昇竜の勢いのカエサルの覇権争いを題材として、歴史的な事実を踏まえながらも詩的な創作を交え、共和制であったローマの帝政への道を開いたこの戦いを壮大な悲劇的過程として描いたものである。
 第1巻の冒頭、詩人は「内乱にもましておぞましい戦(いくさ)、正義の名を冠された犯罪」(第2行、17ページ)がこの叙事詩の主題であることを示し、内乱とその戦禍の悲惨さを歌うが、それも、彼が仕えていた皇帝ネロの輝かしい統治の前提であると考えればやむを得ないと述べて、その援助を求めている。〔本心からそう思っていたというよりも、そのように歌って、皇帝のご機嫌をとろうとしていたと考えるべきだと思う。〕

 皇帝を賛美した後で、作者はこの叙事詩の主題である「内乱」の原因がなにかを突き止めようとする。
これほどの大事の原因(もと)を解き明かそうと、心は逸(はや)る。わが前に
開けるは遠大な業。民を狂わせ、戦に駆り立てた原因は何か、
世界から平和を奪った原因は何かと。
(70‐72行、21‐22ページ)
 まず挙げられるのは、「嫉み深い/宿命の連鎖」(72-73行、22ページ)であり、これまでも多くの場面で繁栄と自壊とが繰り返されてきたと述べる。「陸と海の覇者」(83行、22ページ)であるローマの場合、他民族の敵視と嫉妬ではなく、みずからの中に戦闘の原因が生み出されたのだという。

 歴史に即して言うと、紀元前60年にローマではポンペイウス、クラッスス、カエサルの第1回三頭政治が開始される。ポンペイウスは黒海南岸のポントスの王で小アジアに勢力を持っていたミトリダテスⅥ世、さらにセレウコス朝シリアを滅ぼし、ユダヤを征服してローマの勢力を拡大し、軍人として絶大な影響力を持っていた。クラッススは経済力豊かで、スパルタクスの反乱を平定した保守派の重鎮であった。この2人に比べると、カエサルは民衆派として、民衆の人気はあったが、その実力においては劣っていたが、とにかく、前二者と手を組むことで、ローマの元老院を圧倒する力を確保できた。元老院を中心としたローマ共和政への愛着を持っていたルーカーヌスは、この三頭政治に対し批判的であり、内乱への端緒と考えている:
・・・惨禍の
原因は、ローマよ、三人の主の共有物となった、ほかならぬお前であり、
民の破滅へと向けられた権力の、死を呼ぶ不吉な盟約であった。
おお、心を一にして協和しがたい者たち、度を超す権力欲に
盲目となった者たちよ、互いに力を交え、ともに世界を支配することに、
何の喜びがあるという。
(84―89行、22-23ページ)

 権力を求める者たちの協力関係は、決して永続するものではないと、詩人は歌う:
・・・おしなべて
王権を共にする者らに信義はなく、天に二日なくして、権力は
ことごとく同輩を許容せぬものであり続けよう。どの民であれ、
他の民の例を信じぬがよく、宿命の例を遠い過去に求めるまでもない。
(91-94行、23ページ) ローマの歴史はそのような実例にみちているというのである。

 しかし、この三頭政治は意外に長続きする。それにはクラッススの存在が大きかった。
 たまゆら不協和な協和は存続し、首領たちの意志ならぬ
平安はたまゆら持続した。来たるべき戦を遅らせる唯一の障壁として
クラッススが立ちはだかっていたからだ。
(98-100行、23ページ)
 それでもこの間に、三頭の一角としての地位を得たカエサルは、ガリア、ブリタニアに遠征をおこない、次第に軍人としての力も蓄積していった。ところが、紀元前53年にクラッススがパルティアとの戦いに敗れ、戦死したことで三頭政治の一角が崩れる。このことで
ローマの狂気は堰を切った。
(107行、24ページ)
 アルサケスの民(パルティア人)たちは、ローマを敗北させただけでなく、その内乱のきっかけを作ったのである。しかも、カエサルの娘で、ポンペイウスの妻になっていたユリアが折あしく、世を去る。生きていれば、2人の間をとりなしたかもしれない彼女の死は、いよいよ両者の衝突を確実なものとしたのである。

・・・ほかのだれも
容認できなかったのだ、カエサルには己の前を行く者が、
ポンペイウスには己に並ぶものが。武器を取る大義で
何れがまさっていたか、それは量りがたい。おのおのに偉大な判者が付き、
大義を代弁して庇護していたからである。勝者の大義は
神々の心に適(かな)い、敗者の大義はカトーの心に適った。
(124-129行、25ページ)
 「勝者の大義は…」という個所の原文は、Victrix causa deis placuit, sed victa Catoni. 英訳はThe victorious cause pleased the Gods, but the conquered one pleased Cato.) 岩波文庫の大西英文さんの訳では「大儀」となっているが、文脈からすれば「大義」の方が適切だと思われる。ローマ史に歴史を残したカトーという人物は2人いるが、ここで引き合いに出されているのは、この叙事詩にも登場する小カトー(Cato, 95-46 B.C.)の方だろう。小カトーが、ダンテ『神曲』の『煉獄篇』で煉獄の守護者として登場していることも注目してよいことである。 

 詩人は続けて
・・・だが、
並び立つ両雄とはいえ、伯仲の間(かん)というわけではなかった。
(129-130行、25ページ)と両者の対比に取り掛かる。ポンペイウスは
・・・過ぎし昔の盛運をひたすら恃んで、新たな
力を蓄えることもしない。大いなる名声の影として佇(たたず)む。
その様を喩えれば、実りをもたらす畑地の中に高く佇立する
ひともとの樫の古木。
(135-138行、26ページ)  「大いなる名声の影として佇む」と訳された箇所の原文はStats magni nominis umbra. 英訳はThere stands the shadow of a glorious name.である。

 これに対して、「カエサルにはそれほどの名声も、/それほどの声価もなかった。」(144-145行、26ページ)が、野心と戦意にみちて将来への野望に突き進んでいる。
その様を喩えれば、雲間に陣風吹いて発せられた雷電。
(152行、27ページ)
 この両者の勢いの差がこの後の展開に影響することになる。が、単に2人の首領たちの対立・反目だけでなく、民衆たちの動きも関係していたという。ローマの戦勝の結果としてこの都市には豊かな富が流入し、民衆の生活も贅沢になり、その考え方も変わっていった。
それはもはやかつての、静謐な平和を喜ぶ民でもなく、
武器を置き、自由に慈しまれて暮らす民でもなかった。
ここから些細なことで怒り狂う人心が生じ、
窮乏にかられた犯罪を軽視する弊風が生じた。
(171-174行、28ページ)
 賄賂が横行し、法が順守されず、信義の退廃が生まれ、「ここから多くの者に利をもたらす戦が生まれたのだ。」(183行、29ページ)

 このように、ルーカーヌスは内乱の原因を支配層の側にも、民衆の側にも求めている。彼が元老院の支配する共和制を最善のものと考えていることが、このような見方に反映しているとも思われる。さて、ガリアにいたカエサルは、いよいよ行動を起こそうとするが、それはまた次回に。原文と英訳の紹介はに拠った。
 昨日は、夜、パソコンに向かおうとしたところで寝入ってしまい、皆様のブログを訪問する時間的な余裕がとれませんでした。これからもこのような失礼を重ねることがあろうかと思いますが、睡眠不足は健康によくないので、ご寛恕のほどをお願いします。
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR