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細川重男『執権』(2)

10月30日(木)晴れ、温暖

 もともと伊豆の平凡な地方豪族に過ぎなかった北条氏が、鎌倉幕府の執権となり、その実権を握ったこと、にもかかわらず自らの家からは将軍を出さなかったのはなぜかという問題を、この地位に就いた2人の人物=北条義時と時宗を代表例として取り上げ、鎌倉幕府の権力構造の変化とそのなかでの北条氏の位置を検討した書物である。
 北条時政は、娘である政子が頼朝の妻となったことで、頼朝が以仁王の令旨に呼応して挙兵したときに、彼を支える中心人物となった。そのとき、彼には宗時、義時という2人の男子がいたが、彼が率いる兵力は決して大きなものではなかった。緒戦の山木攻めは成功したが、次の石橋山の戦いでは圧倒的な平家の軍勢の前に壊滅的な大敗を喫することになる・・・。もともと、北条氏はそれほどの動員力を持つ豪族ではなかったのである。

第2章 江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの
 北条氏庶家江間氏
江間小四郎義時
 鎌倉幕府を研究する際の基本文献である『吾妻鏡』を見ると、相模守に任じられる以前の義時は江間小四郎義時と記されている事例が多く、その後を通じても、江間義時と記されている箇所の方が、北条義時を上回っている。彼の後継者である泰時にいたっては、一貫して江間泰時と記されているのである。
 このことから、著者は義時が、北条氏の名字の地である北条の隣の江間を父親から与えられ、それを自分の苗字として名乗った、北条氏の庶家である江間氏の始祖であると考えている。〔嫡男以外の男子が別家して、自分の 本拠地の名を苗字として名乗ることは、この時代よく見られたことである。〕「平安末期から鎌倉初期にかけては、ちょうど苗字が個人に付いたものから家の名に変わる過渡期で、親子兄弟で異なる苗字を称することは普通のことであった。」(34ページ)

本家と庶家
 義時には宗時という兄がいて、この人物が北条時政の嫡子であった。ところが、石橋山の戦いでの大敗ののち、北条氏は時政・義時と宗時が別路をたどって逃げることにした(細川さんが32ページに書いているように、これは生き残りのための作戦である)。ところが宗時は逃げおおせることができずに殺害される。〔頼朝ご本人は「七騎落ち」といって、舟で安房の国に逃れる。「七騎」の内訳については諸説あるが、現在鎌倉にある安養院の前身の一つである田代寺を建立した田代信綱がその1人であったことは間違いなさそうである。安養院は坂東三十三か所の第三番札所なので、私も参拝したことがある。〕

 宗時が死亡したことで、義時が時政の後継者となったかというと、そうでもないのである。頼朝の乳母であり、後援者であった比企天野一門である比企氏が頼朝・頼家時代を通じて幕府内で大きな力を持っていたが、建仁3年(1203年)の打倒比企氏のクーデター「比企の乱」で北条時政が幕府の実権を握る。しかし、義時の次男である朝時には、母親を通じて比企氏の血が流れており、そのため、かつて比企氏が守護をつとめていた国々の守護職を継承できる可能性が大きかった。このため時政は朝時(北条氏名越流の始祖)を後継者と考えていたと細川さんは推測している。
 元久2年(1205年)に時政とその妻の牧氏が将軍実朝を暗殺して、平賀朝政を将軍にしようとした「牧氏の変」で義時は父である時政を追放し、北条氏の総領の地位を得る。しかし、名越流は自分の系統こそが北条氏の正統であると考え続けていたらしい。

 鎌倉殿家子
大物たちの大人げないケンカ
 『吾妻鏡』に記録された足利義氏と結城朝光の「大人げないケンカ」(47ページ)から、頼朝時代の鎌倉幕府において(少なくとも頼朝には)意識されていた御家人たちの階層秩序が明らかにされるという〔これは細川さんの独創ではなくて、すでに多くの研究者が指摘してきたことである。〕

門葉・家子・侍
 その階層秩序とは、門葉・家子・侍である。
 門葉というのは、頼朝と血縁関係のある源氏の武士。〔頼朝の弟の範頼・義経、八幡太郎義家の子孫である足利義兼、山名兼範、義家の弟新羅三郎義光の流れである甲斐源氏の大内惟義、加賀美遠光、安田義定、平賀義信、武田信光、血縁的には遠いが、源三位頼政の子で伊豆にいたため挙兵の時から頼朝とともにいた源広綱らが、この中に数えられている。細川さんは甲斐源氏の板垣兼信が自分もご門葉の一人だと主張した件を紹介している。このほか、頼朝の異母弟である阿野全成が記されていないし、清和源氏の流れということになると、上野の新田氏をはじめとして他にも多くの武士がいたはずである。〕

 また、「侍」とは、頼朝とは血縁のない家臣、つまり一般の武士団における郎従ということになる。となると、問題になるのは「家子」である。

頼朝親衛隊
 「家の子郎党」というように、家子とは、一般的には惣領との血縁をもつものを指す。ところが、頼朝期の鎌倉幕府では、一般の武士団では家子とされる一門を「門葉」と位置付けてしまったために、頼朝の家子は一般の武士団とは異なる形で形成されたと考えられる。『吾妻鏡』の記述をたどって考えると、御家人たちの中から頼朝と特に個人的に親しく、武芸に秀でたものを選んで組織された頼朝個人の親衛隊とでもいうべきものであると細川さんは考えている。

 この家子であったと考えられる武士には北条義時、結城朝光、八田知重、葛西清重、大友能直{島津・少弐(武藤)とともに鎮西(九州)三強の大豪族となる大友氏の始祖)、三浦胤義らである。

初期鎌倉幕府のヒエラルキー
 鎌倉幕府は、室町将軍の奉公衆や徳川将軍の旗本のような直轄の軍事力をもっていなかったと細川さんは言う。それで鎌倉将軍の軍事力というのは、各御家人の有する軍事力の集合体ということになる。だからこそ、頼朝は自分に直属する親衛隊を育成しようとしたと想像することは容易であり、それが家子であったと推測される。
 そしてその家子の先頭と位置付けられ、「家子専一」といわれたのは北条義時である。つまり、義時は頼朝鎌倉幕府および鎌倉武家社会において、その成立時から特殊な、しかも高い地位に置かれていたと推定されるのである。これが頼家期以降の義時の覇権確立にいたる最初の重要な根拠であったというのが細川さんの考えである。

 では、ここから義時はどのようにして鎌倉幕府、ひいては日本国内における覇権の確立に向かうのであろうか。それはまた次回。源実朝の暗殺の黒幕といわれ、承久の変と、その後、敗れた後鳥羽上皇を隠岐に配流したことで、悪役イメージが強い義時であるが、細川さんは別の義時像を考えているようである。それがどのようなものかは、次回以降のお楽しみということにしておこう。
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