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梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(24)

8月30日(金)雨が降ったりやんだり

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920-2010)は当時彼が所属していた大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、5人の隊員とともに、東南アジア諸国を訪問し、熱帯地方における動植物の生態と、人々の生活誌の調査を行った。これはその旅行の私的な記録である。一行が主な研究場所として選んだのは、タイ北部の山岳地帯で、バンコクから北タイの中心都市であるチェンマイに移動した後に、予備的な調査としてタイの最高峰であるドーイ・インタノンに登り、中国から移動してきた山岳少数民族であるメオ族と接触し、テナガザルの研究を目指す川村隊員のためにテナガザルの歌合戦を録音したりして、またチェンマイに戻ってきた。

第10章 ランナータイ王国の首都
 今回から第10章「ランナータイ王国の首都」に入る。タイの歴史の中でいくつかの王国が興亡を繰り返したが、ランナータイ王国もその一つであり、「ランナータイ王国の首都」=チェンマイである。

 大はずれのイメージ
 実際に訪問する前、梅棹はチェンマイをなんとなく山間の小都市という風にイメージしていた。日本でいえば奈良に似ていて、寺が多く、何となくゆったりしている。盆地だといっても、高い山からはすこし離れている。林業が盛んな産業都市だという事前のイメージもあったが、これもはずれで、しずかな、落ち着いた町である。人口がどのくらいなのかはっきりしないが、5万~10万というところであろうか。これでもタイでは第2の都市なのである。
 チェンマイは現在では20万人を超える人口を有しているようである。ただ、人口という点からいうと、ナコーン・ラーチャシーマーの方が40万人を超えていて、大きい町であるが、歴史的な伝統とか、都市としての格などを考慮して、チェンマイをタイ第2位の都市と考えているようである。この調査隊はナコーン・ラーチャシーマーを訪問していないが、この書物の75ページの地図にその位置が記されている。
 梅棹が訪問した時点では、チェンマイには大学はなかったが、1964年にチェンマイ大学が創設され、その後さらに3つの大学が設置されて現在に至っているようである。2011年から2014年までタイの首相であったインラック・シナワトラさんはチェンマイ大学の卒業生だそうである。そういえば、わたしの大学・大学院時代の友人の娘さんがチェンマイ大学の大学院に留学していたという話を聞いたことがある。彼女は私の別の友人の学生でもあったのだが、なかなか面白い人のようだ。

 架空インタビュー
 「チェンマイはまったく、静かな町である。自動車も少ないし、サームローも少ない。目抜き通路の交叉点には、青赤の信号灯もあるけれど、それも、車が走ってくるのを見てから、道ばたで巡査が操作する手動式のものである。それで間にあうくらい、すべてがのんびりしている。」(251ページ) いくらなんでも、今ではだいぶ違ってきているだろうと思う。

 タイ第2の都会だというのにのんびりしているのは、ここで事業を展開している企業がほとんどないからである。官庁もある。地方政庁のほかに、中央政府の出店がいろいろあるからである。

 のんびりしたところではあるが、チェンマイでは日刊新聞が2紙発行されているという。その一つに、梅棹たち一行の記事がでかでかと載った。「タイ語は読めないけれど、葉山君によると、日本の科学者の一隊がチェンマイを中心に研究活動を続けていること、ドーイ・インタノンに登ったことなど、なかなかくわしく報道されているという。山の頂上で、気温がマイナス3度に下がったことまで、ちゃんと書いてある。」(253ページ)
 ところが不思議なことに、一行のうちの誰一人として、この新聞社からインタビューを受けた者はいないのである。推測するに、チェンマイにはチュラーロンコーン大学の卒業生が何人もいて、葉山や隊に同行しているこの大学の助手であるヌパースパットは、かれらと会っていろいろ話をしている。つまり、新聞記者はそれらの話を伝え聞いて記事をまとめたということらしい。
 新聞社のほかに出版社もあったが、そこで出版されている書物はほとんどが仏教書であった。こういうところも奈良に似ているのではないかと思われた。

 国連職員の芸術家
 戦争中はチェンマイには3万人の日本軍が駐屯していたという。それが、梅棹が訪問した1958年にはたった3人だけになってしまっていた。「ひとりは、国連職員の生駒弘さんで、あとのふたりは、田中写真館の田中盛之助さんと、その娘むこの波多野さんである。近年まで、もうひとり歯医者さんがいた、この人は死んでしまった。」(254ページ) 下巻まで読んでいくとわかるが、この数はさらに減少する。
 梅棹の一行は生駒さんの家に厄介になっていた。生駒さんは60歳を超えていたが、この地方における漆工芸の指導のために、ILOから派遣されて、単身ここに赴任してきていたのである。生駒さんは人生を楽しむすべを知っている人のように思われた。彼は漆芸の図案のためと思って、チョウの採集を始めたのだが、その後、何かのためになるかと思ってそのほかの昆虫にも手を伸ばすようになったのだという。それだけではない、彼が長年あつめた昆虫の標本を、自分にはチョウだけあればいいといって、譲ってくれた。これは調査隊にとってありがたいことであった。

 工芸の都
 生駒さんは日本に留学したことのあるソムウォン君という助手兼通訳兼運転手に迎えられて、漆芸を教える施設へと出勤している。生駒さんはこの施設の校長というべき存在であるが、すべて日本語で押し通している。ILOに提出する報告書も日本語で書いているという。〔ILOは1919年に創設され、日本は当初からの加盟国であり、一時離脱したが、1951年に復帰している。ILOが国連の専門機関の1つとなったのは1946年であり、日本の国連加盟は1956年のことであった。〕

 北タイからビルマ、ラオスにかけて、ウルシはたくさん見いだされる。チェンマイはもともと、漆器の産地として知られていた。ところが、ビルマとの戦争に負けて漆器政策の技術者たちを連れ去られたために振るわなくなったのだという。もっとも、その前、13世紀末にチェンマイを建設したメンラーイ王が技術者をビルマから連れてきたことで、漆器の製作が盛んになったという経緯もあるのである。とにかく、生駒さんの努力によって漆器製造の水準は向上してきたようである。

 チェンマイにいる他の日本人はどうかというのはまた次回に紹介することにする。漆工芸のその後については、この書物の下巻に触れられている。梅棹の人文研時代の秘書であった藤本ますみさんの『知的生産者たちの現場』によると梅棹は自宅の玄関に河井寛次郎作の花瓶をおいていたというから、工芸品を見る目はかなり高かったはずである。そんなことも考えながら読んでみると余計に興味が増す。

 いろいろな事情で作業が遅れてしまい、皆様のブログを訪問する時間的な余裕がなくなりました。どうもそういうことが重なっていますが、あしからずご了承ください。
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