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『太平記』(277)

8月27日(火)朝のうちは昨夜おそくから降り出した雨が残っていたが、その後は曇天が続く。

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)10月、光厳上皇の皇子興仁王が践祚された(崇光帝)。このとき、院の御所に、子どもの首を犬がくわえてくるという怪異があった。
 その頃、仁和寺の六本杉で、天狗道に落ちた尊雲法親王(護良親王)以下の宮方の怨霊が、天下を乱す謀議を企てるのをある僧が目撃した。その謀議とは、まず尊雲が足利直義の北の方の胎内に宿り、他の天狗も足利方諸将に取りついて大乱を起こすというものであった。

 夜明けとともに、一部始終を目撃した僧は京へ帰り、薬医頭(やくいのかみ)である和気嗣成にこのことを語った(岩波文庫版の脚注によると、『園大暦』には、足利直義室の出産に仕えたのは、嗣成の一族である仲成であったと記されているそうである)。
 4,5日すると、足利直義の北の方が、体調不良を訴えたので、医術の家である和気、丹波の両流の医師たち、本道(内科)、外鏡(外科)で評判の高い医師たちが数十人集められて、脈をとって診察することになった(数十人というのは、直義の権勢のほどを示すものであろうが、どうも大げさである)。
 ある医師は、この病気は風邪がもとで起きたものであるから、風邪薬である牛黄金虎丹、それに辰砂天麻円を合わせて、服用されるのがよろしいでしょうという。牛黄というのは牛の胆のうに生じる黄褐色の結石で、漢方では狭心症、胃炎、腎盂炎などの治療に用いるのだそうである。一方、辰砂天麻円というのは水銀と硫黄の化合物で作った薬だと脚注にあるから、こんなのを飲んだらかえって毒になるのではないかと思う。現在の知識からいえば、風邪ならば葛根湯、少しこじれた場合は小柴胡湯ということになると思う。どうも話が大げさに展開している。
 また別の医師は、病は気から起きるということで、気を鎮めるための薬湯である兪山人降気湯(ゆさんじんがごうきとう)、神仙沈麝円を合わせて服用するのがよかろうという。
 さらにまた別の医師は、この病気は腹の病気であるから、金沙正元丹、秘伝玉鎖円を合わせて服用すれば快癒するだろうという。それぞれの医師の見立てと処方がまったく異なるが、わけのわからない高そうな薬を勧めている点は共通している。

 そこへ、薬医頭の嗣成が、少し遅れてやって来て、脈をとってみたが、どういう病気か判断がつかない。この時代の医術では、病気の数は多いけれども、大別すると風邪、気、腹病、虚羸(きょるい、衰弱、疲労のことらしい)の4種類になる。すでに診断した医師たちの判断がまちまちで、診断をしたものの、どうもこの4種類のどれに該当するとも思われない。どうも不思議なことだと思っているうちに、仁和寺で雨宿りをしていたという僧が目撃した話を思い出した。それで、「これはご懐妊されたことを示す脈であるように思われます。それも男のお子様でしょう」と小声で言った。それを聞いた周囲のものは、あのおべっか野郎の嗣成がとんでもないことを言い出すものだ。北の方は40をすぎておいでになる。それで初産というのは信じられないことだと、嗣成を非難したのであった。

 それから月日が過ぎて、北の方が妊娠していることが明らかになったので、何ともわけのわからない病気だといって、高い薬を飲ませようとした医師たちは、みな面目を失い、嗣成だけが所領を頂くことになった。それだけでなく、やがて典薬頭(てんやくのかみ、宮中で医薬・医療にあたった役所の長官)に任じられたのであった。
 戦国時代から江戸時代にかけて宮廷医官をつとめた半井家は嗣成の子孫である。気象予報士の半井小絵さんはこの半井家の子孫だと言っているそうであるが、どこまで本当のことかはわからない。

 それでもなお、まだ本当に懐妊したのかわからない、その時になったらどこの馬の骨ともわからないような赤ん坊を連れてきて、これが生まれてきた子どもだと言いふらすのではあるまいか、などと嫉みそねむ者たちは言いあっていたが、6月8日の朝、北の方は出産し、安産だったうえに、生まれてきたのは本当に男の子であった。男子出産の際のしきたりとして桑の弓、蓬の矢で四方を射て、邪気を払った。このおめでたい報せはたちまち広がり、足利一門と一族、足利氏と同じく源氏に連なる人々、諸国の守護・大名は言うまでもなく、多少の地位のあるものは公家、武家とを問わず、鎧、腹巻、太刀、馬、車、薄い綾絹と、金糸で模様を織り出した錦などなど様々な引き出物を我先に持ち寄ってお祝いに参上したので、直義の邸は人々であふれ、家の中に入り切らない人々が路上に並ぶという有様であった。この後、この赤ん坊(如意王)の誕生が尊氏・直義兄弟の不和をひきおこし、天下が再び争乱に巻き込まれること、如意王自身の短い運命など知る由もなく、「大変な幸運のもとに生まれてきた赤ん坊であることよ」などと皆が噂したのであった。

 岩波文庫版で、兵藤裕己さんが繰り返し注記しているように、崇光帝の践祚は貞和4年のことであるが、直義に男子が生まれるのは貞和3年のことであり、『太平記』のこの辺りの記事は年代が乱れている。あるいは故意に、このような年代の入れ替えをしたのかもしれないが、そうした入れ替えを通して、『太平記』の作者は如意王の誕生が尊氏・直義の反目・抗争=観応の擾乱の原因であり、そしてそれは、宮方の怨霊の仕業であるということを、読者に印象付けようとしているようにも思われるのである。
 次回は、舞台も登場人物も変わって、楠正成の遺子正行の活躍を描く章段となる。

 明日は病院の予約があり、診察が終わったあとは映画を見ようかなあとも思っておりますので、更新が遅れ、またみなさまのブログを訪問する時間的余裕はなくなるだろうと思います。あらかじめ、ご了承ください。
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