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梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(23)

8月24日(土)曇りのち晴れ

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は、大阪市立大学の学術調査隊の隊員とともに、東南アジアのタイ、カンボジア、ベトナム、ラオス4カ国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌の調査研究を行った。これはその際の私的な記録である。
 一行の主な研究場所は北タイの山岳部で、1958年1月にタイの最高峰であるドーイ・インタノンに登り、その後、北タイの中心都市であるチェンマイの西にそびえるドーイ・ステープの裏山に住む山岳少数民族であるメオ族を訪問する。メオ族は中国革命の余波を受けて、中国から東南アジアに移住してきているのである。その後、一行はビルマ(ミャンマー)との国境付近を目指して北上し、チェンダーオでテナガザルの歌合戦を録音する。チェンダーオの森は、戦前米国のカーペンターが霊長類の研究を行った場所で、その時とは条件は違っているが、研究場所の1つとして選ぶことになった。

第9章 類人猿探検隊(続き)
 人民をひきいる王の移住
 1月20日、一行はチェンダーオのキャンプをたたみ、また街道筋に戻ってファーンへと向かう。「街道は、むしろ北へゆくほど道がよくなった。そして、どういうわけか交通量も多くなる。ファーンは北部辺境の大中心なのであろうか。」(242ページ)
 街道からビルマとの国境に連なる山々が見えるが、この一帯がタイの最北部というわけではなく、一番北の町はメ-・サーイである。そしてそのすぐ東の、タイ、ビルマ、ラオスの3国が国境を接するあたりに古代タイ史の中心都市であったチェンセーンの町がある。

 「現代においては、タイの中心部は、はるか南のメナム(チャオプラヤー)下流地域に移ってしまった。しかし、その夜明けの時代においては、タイの歴史は主として、これら北タイの山間の盆地群を舞台にして展開したのであった。伝説によれば、8世紀のころ、雲南の大理府によるナンチャオ(南詔)王国の王子は、10万の男女をひきいて北方から移住してきて、メー・サーイに達した。チェンセーン市の建設は773年であるといわれる。武装兵団による征服ではなく、人民大衆をひきいての王の移住というモチーフは、古代タイ史にしばしばあらわれるところのものである。タイ族は、ここに最初の植民拠点を建設したのであった。」(243ページ)

 タイ族が中国南方の雲南地方に起源を持つことは確かなようであるが、ナンチャオ王国の王子というのは伝説に過ぎないようである。というのは南詔国はタイ族というよりも、チベット・ビルマ語族の国であったという説の方が有力なようだからである。なお、江戸時代の学者伊藤東涯の『制度通』のなかに、年号について触れて、「南詔国・安南国、少々年号あれども、数百年相続して年を紀することなし」(平凡社東洋文庫版、17ページ)と記されている。安南は現在のベトナムである。南詔国はともかく、安南はかなり長いあいだ年号を使用していた。1802‐1945の間存続した阮朝は一世一元の制度を採用していたのは、中国の明・清、明治以降のわが国と同様である。

 タイ族は先住のラワー族やカー族と戦い、さらにその背後にあったクメールおよびモンの帝国の影響力を排除しながら、次第に南下して、勢力を拡大していった。「チェンセーン王国はその後次第に発展し、13世紀以後のタイの諸王朝は、チェンマイのランナータイ王国も、スコタイ王朝も、アユタヤ王朝も、みんなこのチェンセーン王統から出たものであるとされているのである。」(244ページ) 現在のチャクリー王朝はアユタヤ王朝の王統に連なっているというので、やはりチェンセーン王統の血をひいているのではないかと思うが、なぜかそのことは記されていない。

 7777.7キロ
 昔の民族の興亡とはおよそ縁遠いような平和な様子で、北タイの農村は広がっている。街道に沿っていくつかの町がある。
 ファーンの町に入ると、一行の先頭の車を走らせていた隊員の依田が車を停めて、メーターが7777.7キロになったと知らせてきた。そのせいでもないだろうが、車を停めた近くに郡役所があり、執務時間は終わっていたが、郡長が役所の裏の官舎から出てきて、快く面会に応じ、チェンダーオの郡長からの紹介状を受け取ってくれた。

 農事試験場
 この郡長の管轄下にあるファーン郡には、温泉と油田というタイには珍しい天然現象がみられる。温泉はファーンの町から20キロばかり北西に入ったところの農事試験場のなかにあり、場長が温泉の管理人を兼任しているという。郡長は場長あての紹介状を書いてくれた。油田の方は、軍事施設なので、郡長が見学の世話をできないという。

 大変な悪路を進んで、途中で日が暮れてしまい、暗くなってからやっと農事試験場に到着する。その日は試験場の事務室に泊まった。
 翌日、試験場を案内してもらう。「試験場の設備はなかなかりっぱなものだった。コーヒーの苗圃があったが、これは御自慢の物のようだった。しかし、全体としては蔬菜園芸を主とする試験場である。ずいぶん広い面積にわたって、いろいろのものを栽培していた。ゆうべ、ここに着くなり、ここでできたというカリフラワーをもらったが、とてもおいしかった。」(247ページ) 
 調べてみると、チェンセーンに本社のあるブラック・アイヴォリー社が独自のコーヒーを商品化しているという(どういうコーヒーかは御自分でお調べください)。コーヒーの生産ではタイはベトナムに先行されているが、今後コーヒーの消費はかなり増えると予想されるので、タイのコーヒー生産も伸びていくかもしれない。蔬菜をめぐっては、あまり進展はないようであるが(もう60年以上の年月が経っている!)、カリフラワーの味についてグルメの梅棹が褒めているのだから、可能性はあるはずである。

 それにしても、かなり立派な施設がある一方で、そこへの道が整備されていないというのはどうも不思議なことだと梅棹は思った。場長の話だと、雨季など道路事情が悪化するので、半年は施設内に籠城することになるというのである。

 森の温泉
 温泉は事務所のすぐ裏にあり、プールのような形に漆喰で固めてあった。2キロほど上流の宣言からお湯をひいてくるので、途中ですっかり冷めてしまい、日本の温泉の常識からすると、かなりぬるい。
 それでも久しぶりの湯につかって、いい気持になっていると、隊員のひとりの川村が、「この季節には温泉にはヘビが集まるもんだ」などというので、すっかり怖気づいてしまう。〔川村はサルの研究家だから、サルと一緒に温泉に入ったことはあったかもしれない。〕 泉源地まで行ってみたが、かなり湧出量は豊富で、日本だったらすぐに開発の手がのばされるだろうと思う。日本とタイの入浴習慣の違いもあって、タイの人は温度の高い温泉を好まないのだという。

 国境付近まで出かけようと思ったが、道が悪いので断念する。試験場の署名簿に協力への感謝の言葉を記して、チェンマイに戻る。チェンマイの宿所である生駒邸にはバンコクから、植物分類学者の津山尚が到着して、一行を待っていた。しばらく一行とともに行動を共にする予定である。

 以上で第9章「類人猿探検隊」が終わる。次回からは第10章「ランナータイ王国の首都」に入る。1950年代の終わりごろのチェンマイの様子が、梅棹の目に触れるままに記されている。上下2巻からなるこの『東南アジア紀行』は第1章~第10章が上巻、第11章~第23章が下巻を構成し、下巻のなかで第11章~第19章が1957~1958年の東南アジア旅行、第20章~第23章が1961~1962年のタイ旅行の記録である。まもなく上巻が終り、下巻に入ることになり、梅棹の足どりはまた別の方向に向かうが、それはまたその時のお楽しみということで…。

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