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梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(22)

8月17日(土)晴れ、暑し。

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジアのタイ、カンボジア、ベトナム、ラオス4カ国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と、人々の生活誌の調査を行った。この書物は、その際の私的な記録である。
 すでに第8章までを紹介し、第9章「類人猿探検隊」に入っている。第8章に記されたように、一行はタイの最高峰であるドーイ・インタノンに登頂し、その後再び北タイの中心都市であるチェンマイに戻った。第9章「類人猿探検隊」では、この都市の西側にあるドーイ・ステープという山の裏山に住むメオ族と接触した時のことから書きはじめられている。接触のため、チェンマイのカトリック教会の協力を求め、そのディマス神父が一行に同行することになった。中国から山伝いに移住してきたメオ族はアヘンの密栽培者であり、その結果、豊かな生活をしているが、その生活には荒廃した様子も見られると梅棹は観察した。

 空中社会
 メオ族の集落で、一行が宿泊した家は若い夫婦と子どもだけという家族構成で、一部にアンペラが敷いてあるほかは、土間でいろりが設けられていた。
 はじめのうちは警戒する様子を見せていたメオの人々もうちとけて来て、その夜は一行の宿泊先に押しかけ、探検隊の持ち込んだテープレコーダーをめぐって、われもわれもと録音→再生をせがむという歌合戦の様相を呈することとなった。彼らの歌はおそろしく単調であるが、彼らの鳴らしている楽器、特に「長い吹口のついたショウ(笙)のような楽器」があって、「これはなかなかさわやかないい音を出した」(234ページ)。
 
 以下の観察は興味深いので、少し長くなるがそのまま引用する。
「メオたちは、よく歌い、よく笑った。かれらは活力にみちている。かれらと話し、かれらと交歓してみると、かれらの生活は、すこしも荒廃しているようには思えない。現金収入のだぶつきによる退廃と見たのは、まちがいであろうか。
 わたしは、まちがっていたかもしれないと思う。素朴な、自給自足的に完結していた村が、急にたくさんの現金収入を得たときには、しばしば悲劇的な社会の解体と生活の退廃がおこる。しかし、メオたちは、そういう素朴な完結的社会ではないのである。こんな山の中にいるけれど、鉄砲づくりやアヘン生産を通じて、かれらはほかの社会と深くむすびついているのである。もちろん、かれらだって、はじめからそんな生活ではなかっただろう。しかしそれによって、二次的にもせよ、かれらは近代社会に対するきわめて特殊な適応をなしとげたのではあるまいか。それが、この100年ばかりのあいだの、かれらの急速な南進をうながした、エネルギー源の秘密かもしれない。そう考えると、メオ部落のもつ不思議な無残さも、消えてゆく民族の荒廃ではなくて、現に活力にみちて動いている民族の、開拓前線の不安定さなのかもしれない。
 かれらは、1000メートル以上の高いところにしか住まない。山頂や、稜線や、急斜面に、かれらは村をつくる。となり村といっても、谷をへだててはるかに遠い。山の上だけがかれらの領分である。1000メートルの等高線で切って、それ以下の部分を地図から消し去ってしまうと、あとにあらわれてくるのがメオの国である。メオは、貴州、雲南、広西、トンキン、ラオス、タイにまたがる広大な地域において、こういう奇怪な分散隊形の空中社会を展開させたのである。」(235ページ)

 メオ(ミャオ)族についての梅棹の記述は、以上で終わっているのだが、どうも気になるところがあるので、東南アジアにおけるその後の彼らの動きについて知りえたことを簡単に書いておく。タイでは、1960年代から70年代にかけて、メオ族を中心とする山岳少数民族の反政府ゲリラが政府軍と交戦、徹底的に弾圧された。それでも、ウィキペディアによると2002年の時点でタイには15万人ほどのメオ族が住んでいるという(梅棹が遭遇した時点から、その人口は増加している)。ただ、タイやラオスからアメリカなどに難民として流出したメオ族もかなりいて、アメリカにおけるメオ族人口は17万人というから、タイよりも多いことになる。ベトナム、ラオスを含めて東南アジアの多くのメオ族(その他の山岳少数民族)が、過酷な運命にさらされることになったのである。
 それはさておき、梅棹のこの紀行は、異文化に属する社会を、国民国家という枠組みのなかで考えていくことの無理も教えてくれるのである。

 類人猿探検隊
 チェンマイに戻ると、一行は、北部国境(タイとビルマ=ミャンマー)近くへの旅行の準備を始めた。チェンダーオを経て、ファーンまで行く予定である。小川、依田の森林班(植物生態学)と、川村のサルの研究場所を確定する必要がある。
 1月18日、チェンマイを発ってチェンダーオに向かった。(1月5日~12日にドーイ・インタノン登山、1月14日からメオ族の集落を訪問していたから、かなりの強行軍である。チェンダーオで一行は郡長と営林署長に会い、さまざまなアドヴァイスを得る。ドーイ・チェンダーオ山のふもとにある有名な寺に挨拶に赴き、その裏手にキャンプを張る。それもこれも川村の研究のフィールドを探すためである。

 隊員の1人である霊長類研究家の川村俊蔵(1927‐2003)は北タイにおける野生のテナガザルの生活を調べようとしている。いわゆる類人猿に属するサルは4種類しかおらず(最近ではボノボを入れて5種類ということになっている)、そのうち東南アジアに生息するのはオラン・ウータンとテナガザルの2種類である(後のゴリラとチンパンジーはアフリカにいる)。テナガザルはタイやビルマの森林に多く住むということで、張り切ってやって来たというわけである。
 川村は日本ではニホンザルの生態を研究する霊長類研究グループに属して研究を続けてきたが、今度はテナガザルの社会生活にも目を向けようというのである。彼が太平洋学術会議で研究発表をした際に、その研究に異常なほどの興味を示したアメリカのクーリッジ博士は、戦前にこの北タイの地域で霊長類についての調査研究を行ったカーペンター博士を中心とする調査隊のマネージャーだったという経緯がある(日本だと大規模な共同研究の場合、事務局が組織されることが多い。マネージャーというのはそういう場合の事務局長に相当する職掌であろう)。今回の調査はカーペンター・エクスペディションほど大規模なものではないが、かれらの研究をもとに、そこで見落とされたことや、その後の変化を見つけることならば専門家が1人しかいなくても十分に可能である。

 テナガザルの歌合戦
 第8章でそのしだいを記したドーイ・インタノン登山の際に、すでに一行はテナガザルについての調査に取り掛かっていた。登り道で立ち寄った集落ソップ・エップのカレン族の人々が、そのあたりでは朝、テナガザルが鳴くという。梅棹と川村は機材を運んで、その鳴き声を録音しようとした。行きは結局空振りに終わり、下山時にまたソップ・エップに立ち寄った時に録音に成功する。小長谷由紀・佐藤吉文編『ひらめきをのがさない! 梅棹忠夫、世界のあるきかた』(勉誠出版、2011)の68‐69ページにこのときの写真が紹介されている。巨大な鉄製のお椀のような集音機の運搬が大変なので、隊員がそろっているうちにこの録音だけはしておこうと思っていたのだと語られている。

 「テナガザルはつづけて鳴いた。それはまるで、歌うような調子の、美しい声だった。
 けものの声というよりは、むしろ鳥のさえずりに似ていたが、はるかに丸味をおびて、ながくあとをひいた。ときには高く、あるいは低く、その調子はいろいろにかわった。なんという表情にみちた声だろうか。
 まもなく、その声に応ずるようにして、別の一群が鳴きはじめた。それから、さらにもう一群が加わった。声は、谷の対岸にこだまして、ソップ・エップの谷は、まるで歌合戦のようだった。」(240ページ)

 チェンダーオの森
 一行は、チェンダーオの森では、テナガザルにソップ・エップの谷の時よりももっと接近しようともくろんでいた。ドーイ・インタノン山中のソップ・エップの谷に比べると、ドーイ・チェンダーオの山すその森林の中ははるかに足場がいい。戦前にカーペンター・エクスペディションがお寺の一帯を主なフィールドに選んだのは、寺のおかげでこの辺りが一種のサンクチュアリ(聖域、殺生禁断の地)になっていて、猟師が入らなかったためである。戦後は事情が変わって、猟師が入り込むようになり、テナガザルは以前のようには寺の周囲には見られなくなったという。テナガザルは、人によく馴れるので、猟師はその子どもを捕まえて売ろうとしているのである。

 営林署の世話で、村の猟師が一人、朝早くキャンプにやってきた。今回も川村と梅棹が出かける。猟師はカメの甲羅のように集音機を担いで、先頭に立つ。川村は16ミリの三脚を担ぐ。森を進み、尾根を登っていくと、たくさんのテナガザルに出会うことができた。あちこちから声が聞こえ、川村と梅棹はテープレコーダーを回して、そのさまざまな鳴き声を録音した。
 カーペンターが調査を行った時とは、条件は変わっているにせよ、この一帯が調査の場所として有望であることに変わりはない。カーペンターは、テナガザルの群れは、オスとメスとそれぞれ一頭ずつに子どもがついたものという、人間の家族に似た構成になっていると結論したが、もっと大きい群れがあるという報告もある。川村が確かめようとしているのはその点である。

 どうやらテナガザル研究の見通しは立ったようである。しかし、植物の生態の研究のほうが残っているし、テナガザルについてもまだほかに研究の適地はあるかもしれない。一行はさらに北の地域を探索することになるが、そのあらましはまた次回に。
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