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『竹取物語』とお伽草子『梵天国』

8月7日(水)晴れのち曇り、依然として暑い。

 椎名誠さんの『かぐや姫はいやな女』(新潮文庫)を読み終える。かぐや姫が「いやな女」であるというのは、現代人であり、SF作家でもある椎名さんらしい感想であって、物語が成立した時代の婚姻制度を無視しているという、「はじまりはじまり」で椎名さんが議論したと書いている「若手女流作家」の意見もきちんと消化する必要があるが、かぐや姫の話は、そこで議論されているように伝承文学研究の文脈からだけでなく、国文学研究の文脈からも検討される必要があるというもう一つの問題もある。つまり、求婚者に様々な難題を科す美女(もしくは高貴な女性)という民話はあちこちにあるから、それらとの比較検討も興味深い作業であるが、『竹取物語』をめぐるなぞの解明というのも取り組むべき作業ではないかということである。

 『竹取物語』をめぐるなぞといわれていることの主なものを挙げると、物語の伝来に関わるなぞがある。例えば、浦島太郎の話は、『日本書紀』に浦島子として出てくるのを皮切りに、『万葉集』や『丹後風土記』、さらには『浦島子伝』などと古代の文献に多く記され、その後も様々な形で書き記されて、お伽草子のなかにも収録されているのだが、かぐや姫の方は、『竹取物語』が孤立して存在し(『今昔物語』に類話があるとはいえ)、お伽草子にも入っていないという特異性がある。
 さらにまた、『源氏物語』の「絵合せ」の帖には「物語の出で来はじめの祖なる『竹取の翁』」として言及されているが、「物語は住吉、宇津保…」という『枕草子』201段には言及されていないのはなぜか、という問題もあるという。

 私が一番気になっているのは、『竹取物語』でかぐや姫が5人の貴公子たちの求婚を退けた後、帝が登場し、御殿に召し出そうとするが、かぐや姫がそれも拒み、とうとう帝がかぐや姫のところに押しかけていくと、彼女が姿を変化させて、そのことで帝も彼女が尋常の存在ではないことに気づいて、召し出すことをあきらめるというくだりである。その後、帝は、かぐや姫に何通か手紙を送り、かぐや姫もそれに返事をしたためるが、そのうちに彼女が月の世界に帰ることになる。帝はそれを阻止しようとするが、月の世界の人々には全く歯が立たない。かぐや姫は自分を養ってくれた翁と媼に不死の薬を残していくが、2人はそれを飲もうともせず、帝に献上する。しかし、帝も飲む気がしないので、富士山の頂上でこの薬を燃やさせたというのが結末になっている。
 何が言いたいのかというと、この物語の帝は、人間としての限界をわきまえた、非常に賢明な人物として描かれているということである。これと対照的に、横暴極まりない人物として描かれているのが、お伽草子『梵天国』に登場する帝である。

 『梵天国』は梵天王の娘を妻にした五条の中将という貴公子が、その妻が鬼にさらわれたのをとり戻すという規模が大きくて、波乱にとんだと言えば、褒めたことになるが、そのわりに荒唐無稽というか、中将が途中で突如、中納言になっているというように、語り手の側の不手際も目立つ物語である。〔王朝時代の官位は中将≦参議<中納言ということで、中将と中納言とでは官位の隔たりがある。〕

 五条の中将は清水の観音の申し子で、笛の名手であった。世を去った父母の追善のために笛を吹いていると、梵天王が現れ、その笛の音に感動したので、自分の娘を嫁がせるという。こうして中将は梵天王の王女と結ばれたが、時の帝がこの王女に関心を抱き、さまざまな難題を持ちかけて、王女を参内させようとする。『竹取』の帝は、かぐや姫が地上の存在ではないと悟って、彼女を自分のもとに置くことを断念するのだが、こちらの方は梵天王の王女という天上の存在であることを知ってますます彼女を自分のものにするという欲望が募るというのだから始末が悪い。

 それらの難題の一つ一つを、中将は王女の助言を得て解決していくのだが、最後に、梵天王の判を得るという課題のために梵天国に出かけることになり、その留守のうちに、鬼の国の国王に妻を奪われてしまう。そこで、今度は清水の観音の助けを得て、妻を取り返しに出かける。

 物語の結末は、言わないことにするが、中将が笛の手であるという芸能上の特徴を除くと、後は神仏の加護というような超自然的な力によって問題を解決していく。同じお伽草子でも、源頼光が大江山の酒呑童子を退治した話のように、神仏の加護を受けるにせよ、自分たちの力によって問題を解決していくというわけではない。問題解決の力を持った武士と、他力本願の公家という力の差がうかがわれるのである。大江山の酒呑童子の物語は、摂関政治の最盛期である一条天皇の治世の時代の出来事として描かれているというのも注目していいことかもしれない。

 横暴な要求によって中将とその妻とを苦しめた帝であるが、その横暴さそのものについての帰結は物語の中で記されていない。ただ、お伽草子らしいといえば、そういえるのだが、中将もその妻も、じつは神仏の仮に現れた姿であったということが語られる。そのことによって帝の権力も相対化されてしまうのだが、横暴なふるまいが道徳的に免罪されるというわけではあるまい。富士山の頂上から吹き出る煙が物語を締めくくる『竹取物語』と比べて、御伽草子『梵天国』は不満の残る展開のまま終わるのである。
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