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『太平記』(274)

8月6日(火/広島「原爆の日」)晴れ、暑し。

 康永元年(この年4月に暦応から改元、南朝興国3年、西暦1342年)秋、四国、中国地方における宮方の反抗は鎮圧され、天下は武家方のものとなり、公家は衰え、北朝の朝廷においても朝廷の諸行事も行われない世となった。
 足利尊氏と直義は、先帝後醍醐の神霊を鎮めるために、夢窓疎石を開山として天龍寺を建立した。康永4年(南朝興国6年、西暦1345年)8月の天龍寺の落慶法要には、花園・光厳両上皇が臨席されることになっていたが、比叡山延暦寺の訴えに配慮して、8月29日の落慶の翌日に御幸された。法要が勅会とならなかったことは不吉の前兆であり、以後、天龍寺はたびたび火災に見舞われた。
 その頃、備前の三宅(児島)高徳は、丹波の荻野朝忠と結託し、新田(脇屋)義治を大将として挙兵を企てたが、計画が露見し、荻のは山名時氏に攻められて降伏した。三宅高徳は備前を脱出して京都へ上り、足利兄弟の夜討ちを企てたが、夜討ちの前日に事が漏れて幕府方に襲われ、宮方の兵の多くは自害し、高徳は大将新田義治とともに信濃へ逃れた。その折、壬生の地蔵堂に隠れた香勾(こうわ)高遠は、地蔵菩薩の霊験によって命を救われた。

 今回から、第26巻に入る。
 貞和(じょうわ)4年(南朝正平3年、西暦1348年)10月27日、後伏見院の御孫で(光厳院の皇子で)ある興仁王(おきひとおう)が16歳で皇位を継承されることとなり、同日、内裏で元服の式を挙げられた(崇光帝である)。三種の神器のうち宝剣と宝璽とを手にされて後、28日に萩原の法皇(花園院)の長子である直仁親王が東宮になられた。御年13歳であった。
 この個所は、かなり多くの注釈を加える必要がある。岩波文庫版の脚注によると、この26巻に記されている足利直義室の懐妊や、楠正成の遺子である正行の挙兵などの出来事は、貞和3年の事柄であるが、巻頭に貞和4年の崇光帝即位を記すことで、あたかもこれらの出来事が貞和4年に起きたことのように記されている(後で出てくる仁和寺の六本杉で起きた怪異との辻褄合わせである)。
 ところで、飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館)には、このあいだの事情をめぐり注目すべき記述がある。光厳院が自分の子である興仁王の後継者として、叔父である花園院の子の直仁親王を選ばれたのは、ご自分が皇太子時代に薫陶を受けた恩に報いるためであるというのが従来の説であったが、実は直仁親王は光厳院の子であることを院ご自身が証言された置文が存在するというのである。直仁親王の子孫に皇統を伝えるべしというのが光厳院のご意志であったが、岩波文庫の脚注にある通り、直仁親王は観応の擾乱のあおりで、観応2年(1351年)に廃太子されてしまった。その際に出家されたが、応永5年(西暦1398年)まで生きながらえられることとなった。

 新帝の御即位に伴い大嘗祭を行なうこととなり、卜部宿禰兼前(うらべのすくねかねさき)が新穀を献上する悠紀(ゆき)・主基(すき)両国を卜定する儀式を行い、国郡が決められて、悠紀・主基の祭田に稲穂を抜き取りに出かける使者が丹波に派遣された。その10月に行事所始めという、大嘗会を差配する役所の執務初めがあって、斎庁所という神饌を整える建物を建てようとしたときに、院の御所で不思議な出来事が起きた。
 まだらの犬が、3歳ほどの幼児の首を銜えて現れ、院の御所の南殿(南おもてにある正殿)の広縁の上に首を置いた。夜明けに、格子戸をあけた御所の侍が、箒をもってこの犬を追い払おうとしたところ、この犬は御殿の棟の上に上って西の方に向けて3度吠え、どこへともなく姿を消してしまった(犬が建物の壁をのぼるというのも不思議である)。

 「このような怪異な出来事は、死の穢れに触れることであり、今年の大嘗会を取りやめるべきである。そうでなくても、先例を参考にし、法令を探って方策を勘案したほうがいい」と法律を専門とする坂上・中原の両家の人々に意見を徴した。皆、「一年の触穢が適当でしょう」という意見であったが、その中で刑部省の大判事であった坂上明清の意見書に、法令からの引用をしながら、「神道は王道によつて用ゐる所なりと云へり。しかれば、ただ宜しく叡慮に在るべし」(岩波文庫版、第4分冊、166ページ、神の意向は王の意向の赴くところに従うといいます。ですから、ひとえに帝のお考え次第です)と意見を申し立てていた。帝も上皇も、この明清の意見書が気に入られて、そのとおりであると思われたので、今年大嘗会を行うことにすると、武家へ院宣を下された。

 武家(幕府)はこの命令に従って、国々へ大嘗会に備える新米を供出するように急き立て、強制的に取り立てた。ここに至る数年間というものは天下の兵乱が続いて、国土は疲弊し、人民は苦しんでいるところであるのに、帝の御位がしきりに交代し、大きな儀式が繰り返し行われているので、人々はそのための負担の大きさに苦しみ、これが仁政であるなどと思うものはいなかった。それで、こと騒がしい大嘗会であることよ、今年わざわざ行うこともないだろうにと、人々は陰で非難しあったのである。院の御所で起きた怪異な事件は、世にもまれな出来事であるというのに。

 崇光帝と光厳院が、怪異にもかかわらず大嘗会を延期しようとされなかったのは、宋学の影響のもとで合理主義的な考えをされたからであろう。その一方で、院の周囲の人々が怪異があるので、大嘗会を延期すべきだといい建てたのは、兵乱の影響で人々が疲弊し、困窮しているからである。つまり、ここには笑えない事情が秘められているように思われる。院の周辺の人々が、怪異などに託さないで、もっとはっきりと、人民が疲弊・困窮しているから大嘗会を取りやめるべきだといえば、崇光帝はともかく、光厳院は考えを改めたかもしれないのである。そしてこの意志の疎通の滞りが、人々の不満につながっていく。歴史というのは、こういう出来事の繰り返しに満ちているのかもしれない。
 『太平記』の著者は、宋学の合理主義の大義名分論の影響はともかく、合理主義のほうの影響は受けていないようで、さらなる怪異について、次に記すことになるが、それはまた次回に。
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