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『太平記』(273)

7月30日(火)晴れ

 康永元年(この年4月に暦応より改元、南朝興国3年、西暦1342年)、脇屋義助を吉野から迎えて、一時勢力を挽回したかに見えた四国・中国の宮方であったが、義助の急死後、細川頼春を中心とする足利方の武士たちに破れてほぼ壊滅状態となった。天下は武家のものとなったかに見えたが、康永4年(1345)の天龍寺の落慶法要の際に、比叡山の抗議により、花園・光厳両上皇が法要の1日後に行幸されることで混乱を避けたというように、まだまだ世の中は安定とは程遠かった。

 備前の国の武士である三宅(児島)高徳は、後醍醐帝の時代から南朝に忠義を尽くしてきた武士である。脇屋義助が吉野から伊予に下向した際に、高徳もその麾下に参じたのであったが、義助の死後、その軍勢が離散したため、備前に戻り、本拠である児島(倉敷市児島)に隠れ住んでいたが、なお闘志は盛んで、上野の国から義助の子息である義治を招き、彼を大将として頂いて、宮方の旗を挙げようと考えていた。

 丹波の国の武士荻野彦六朝忠は、相模の国の海老名党の流れをくむ武士で、千種忠顕が六波羅を攻めたときにその軍勢に加わっていたが、その後、尊氏・直義兄弟に属していた。ところが、将軍(尊氏)に恨みを抱くようになっているという噂が聞こえてきたので、忠徳は彼に使いを送り、仲間に引き入れようとした。2人は、千種の六波羅攻め以来の知己なのである。それで朝忠も忠徳と呼応して立ち上がるべく手はずを整えていたところ、計画が露見して山陰地方における足利方の実力者である山名時氏が派遣された。時氏は3千騎を率いて、朝忠が籠っている高山寺城(丹波市氷上町の高山寺に築かれた城)を厳重に包囲し、兵糧攻めを仕掛けた。これには朝忠もたまらず、ついに降伏を余儀なくされた。

 児島の方にも備前・備中・備後3カ国の守護が5千余騎を集めて攻め寄せてきたので、高徳は、ここでは思うどおりの戦いをすることは難しいだろう。むしろ、都に押し寄せて、将軍尊氏、その弟の直義、執事として権勢をふるう高一族、外戚として栄えている上杉一族らの幕府の要人たちに夜討ちをかけるほうが得策であろうと考えた。しかし、いくら奇襲をかけるといっても、ある程度の人数が集まらなければだめだというので、あちこちに隠れ潜んでいる宮方の武士たちに回状を回したところ、あちこちから1,000余騎ほどの武士たちが集まってきた。これだけの人数が1か所に集まっていると怪しまれるということで、200余騎を大将である義治につけ、比叡山の東麓である東坂本に隠れさせ、別の200余騎を宇治(京都府宇治市)・醍醐(京都市伏見区醍醐)・真木・片野(交野)・葛葉(楠葉:真木・交野とともに大阪府枚方市内)に待機させ、いちばんの精鋭300余騎は、洛中と鴨川の東の白河の辺りに潜ませて、気づかれないように勢力を分散させながら、機会をうかがっていた。

 いよいよ翌日の夜に小幡嵩(こはたとうげ、宇治市木幡)に押し寄せて、尊氏、直義、高一族、上杉一族の館に、4つに兵を分け手夜襲をかけようと手はずを整えていたのであるが、この企てをどこで聞きつけたのか、侍所の長官(所司、前回に触れたが、山名時氏のはずである)の代官(つまり所司代である)の都筑という武蔵の国都筑郡(現在の横浜市都筑区、川崎市西部、町田市あたり)の武士が300余騎を率いて、夜討ちの際の案内をしようと忍び(間者、隠密)たちが待機していた四条壬生の宿を急襲した。忍びのものが不意を突かれたのは、どうも体裁が悪いが、児島高徳が忍びのものを組織していたというのは興味深いことがらである。立てこもっていた忍びたちは、かくなる上はと必死に防戦し、射矢が尽きたあとは腹を切って死んだのであった。

 このことを聞いて、都の周辺各地に隠れていた仲間の武士たちは、望みを失い離散することになった。高徳はせっかくの計画が無駄になり、やむなく大将である義治に随行して、信濃の国に落ちて行くことになった。

 さて、壬生の民家に集まっていたところを急襲されて、ほぼ全滅した忍びたちの中で、武蔵国の住人香勾(こうわ)新左衛門尉高遠というものが一人だけ、地蔵菩薩が身代わりになってくださったために、命が助かったのは不思議な出来事であった。

 所司代の率いる兵たちが、世の明けないうちに押しかけて、十重二十重厳重に包囲する中で、高遠一人は、その包囲を切り抜けて、血まみれの刀を手に、地蔵堂(現在の壬生寺)の中に駆けこんだ。どこに隠れようかと、あちこち見まわしていると、寺の僧と思しき法師が一人、堂の中から出てきて、高遠の姿を見て、「そのような姿では、どこに隠れても隠れ遂せるものではありません。この念珠(数珠)を、その太刀と取り換えてお持ちなさい」というので、それもそうだと、この法師の言うとおりにした。

 そうこうするうちに、追手の武士が4・50人ばかり押しかけて、四方の門をふさぎ、残るところを隈なく探し始めた。高遠は、もともと剛毅な性格で、少しも動じることなく、数珠を爪繰りながら、高らかに「以大神通方便力、勿令堕在諸悪趣」(偉大な仏の力で、悪道(地獄・餓鬼・畜生の三道)に堕ちるのを救いたまえ)と「地蔵菩薩本願経」の中の句を唱えていた。追手の者たちは、これを見て、本物の参詣の人かと思って、あえて見とがめるものは一人もいなかった。「ただ仏殿のうち、天井の上まで隅々まで探せ」と大声で叫んでいた。

 すると、たった今、物を切ったように見える切っ先に血の付いた太刀を、袖の下に隠し持った法師が、堂の傍らに立っているを見つけて、「それ、これこそ落人だろう」と、取り手が3人走り寄り、いったん抱き上げた後で地面に転がして、高手小手に縛り上げ、侍所に渡すと、所司代がこれを受け取り、牢獄の中に厳重に閉じ込めた。

 ところが、翌日、見張り役はずっと目を離さず、牢の扉を開けることもなかったのに、この囚人はどこかに姿を消してしまった。監視の役人は不思議なことがあるものだと驚きながら、囚人がいた跡を見ると、霊妙な香りが漂っていて、あたかも天竺の牛頭山に産するという香木の栴檀のようである。囚人をとらえた兵たちが、皆、「左右の手、鎧の袖、草刷り(鎧の胴に垂れ下げて股を守る防具)まで霊妙な香りに染まってしまって、まだ香りが消えません」などと言っているので、「これは必ずや、ただ事ではあるまい」と、壬生の地蔵堂の扉を開き、本尊を拝顔すると、もったいないことに、六道の衆生を救済する地蔵菩薩のお体が、あちこちに刑罰の鞭のために血がにじんだ跡が黒くなって、高手小手に戒めた縄がまだお体を縛っているのが見えたのが不思議なことであった。

 地蔵菩薩を縛った3人の武士は、涙をこぼして泣いて、罪障を懴悔するだけでは足りず、すぐに髻を切って、発心修行のものとなった。香勾は順縁によって彼が平素から仏道を深く信じていたことが暗示されていると思われる)、その命を助かり、3人の武士たちは逆縁(仏道に背く悪事を働いたことが、かえって仏道に入る機縁となること)により来世で仏と会うことになった。仏が伝授された尊いお言葉の取り、仏はこの世、あの世にわたって我々の良き導き手であるのは、ありがたいことである。

 岩波文庫版の脚注によると、壬生寺の地蔵菩薩像は、伝定朝作だそうで、壬生寺にもこの高遠が地蔵菩薩に命を助けられた話は伝わっているらしい。私が昔務めていた会社の同僚が寺の息子で、自分の寺の本尊が定朝の作品ではないかということで、現在博物館で見てもらっていると話していた。その結果は知らないが、南北朝時代には、今よりも多くの平安仏が寺に置かれていて、定朝の作品もたくさんあっただろうと思うと、無常を感じざるを得ない。
 児島高徳という人物は、『太平記』の最初のほうの隠岐に流されることになった後醍醐帝の救出を企てたが、果たせず、やむなく帝の宿所の桜の木に「天句践を空しうするなかれ 時に范蠡無きにしも非ず」と書き付けた話がいやに有名になっているが、その後も、千種忠顕の六波羅攻め、足利尊氏との中国地方での戦い、越前での新田義貞の戦いと何度も顔を出している。彼の実在を証明する史料がないことから実在の人物ではないという説がある一方で、児島=小島繋がりで、『太平記』の作者として『洞院公定日記』に記されている小島法師と同一視する意見もある。それはともかく、物語の展開を導く狂言回し的な役柄として考えた場合には、それぞれの場面にただ居合わせるだけで、論評はするけれども、事態を動かすような働きはしないのは、実在・非実在などという問題以上に、この人物の存在価値を低くしているように思われる。作者の意図がどうであったのかについては、さまざまな解釈があるだろうが、どちらにしても、その意図はあまり成功していないのである。
 これで『太平記』25巻を終って、次回からは26巻に入る。事態の推移は作者の理解をこえたものになり、作者は様々な魔性の存在を念頭に置きながら、物語を進めることになる。

 体調は依然として回復しないので、皆様のブログを訪問することはやめさせていただきます。失礼がつづきますが、あしからずご了承ください。
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