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『太平記』(272)

7月23日(火)朝のうちは雨が残っていたが、次第に晴れ間が広がる。

 康永元年(この年4月に暦応より改元、南朝興国3年、西暦1342年)秋、四国・中国地方で抵抗を続けていた南朝勢力が鎮圧され、天下は武家のものとなり、公家の勢いは衰えた。そのため、朝廷の諸行事も行われない世の中になってしまった。
 京都の将軍足利尊氏と、その弟の直義は、先帝後醍醐の神霊を鎮めようとして、夢窓疎石を開山として天龍寺を建立した。康永4年(南朝興国5年、西暦1345年)8月の落慶供養には、光厳上皇が臨席されることになったが、比叡山延暦寺は款状を捧げて抗議した。これについて、朝廷では公卿僉議が行なわれ、坊城(勧修寺)経顕、日野(柳原)資明が意見を述べ、三条(中院)通冬は和漢の例を引いて天台と禅に宗論を指せるように提案したが、二条良基は末代における宗論の難しさを説き、判断は武家に委ねられた。
 武家は延暦寺の訴えを退け、落慶法要の準備を進めた。延暦寺は強訴を企て、興福寺に牒状を送って同心を求めると、朝廷は上皇の御幸を法要当日ではなく、翌日とすることで延暦寺の憤りを鎮めた。
 8月29日、天龍寺の落慶法要が行われた。光厳・花園両上皇はその翌日に御幸されたが、法要が勅会とならなかったのは不吉の前兆であった。

 なお、花園院、光厳院ともにその伝記によると、禅宗に深く帰依されており、花園院はその御所を禅僧である関山に与えられて、妙心寺とされ、光厳院は晩年を丹波の常照寺(現在は常照皇寺という)で過ごされた。飯倉晴武は、天龍寺の建立に際しての光厳院のご尽力について詳しく述べている(飯倉『地獄を二度も見た天皇 光厳院』、132‐135ページ参照)。

 ここで『太平記』の作者は少し脱線して、東大寺の大仏に関わる故事を持ち出す。
 仏像をつくり、寺を建てることは善根を施すことではあるが、願主がそのことによって自分はいいことをしたのだという驕慢の心を抱いてしまっては、仏教そのものも混乱することになるし、三宝(仏・法・僧)の維持も難しくなるというのである。中国南北朝時代の梁の国の初代皇帝である武帝は、中国に禅宗を伝えた達磨に向かって、「自分は、1700か所の寺を建て、10万8千人の僧尼に供養を施したが、功徳があるのか」と問うたのであるが、達磨は「無功徳」と答えたという。これは、本気で功徳がないといっているわけではなく、皇帝の心の中にはまだ驕慢の心が残っていることを悟らせて、人為的でない、自ずからの善の心を生じさせようとしたのである。

 さて、わが国の奈良時代に、聖武天皇は東大寺を造立されて、金銅16丈の廬舎那仏を本尊として、その開眼供養を行われようとした。〔うるさいことをいうと、東大寺を造立される時点で、聖武天皇は皇女であった孝謙天皇に譲位されて、上皇になられていた。東大寺の大仏は16丈ではなく、現在の計測では5丈3尺5寸である(造立の時点では、もう少し大きかったことは否定できないが…)〕 開眼供養の導師(主宰する僧侶)として、行基菩薩をお迎えしようとした。

 ところが、勅使を迎えた行基がいうことには、「天皇のご命令は重大であり、辞退する言葉もありません。しかし、このように重大な御願は、ただ神仏のお心に任せるのがよかろうと思います。それで、当日は香華を備え、偈頌(韻文体の経文)を唱えて、天竺から梵僧(インド人の僧)が到着するのを待って、それから供養を行なわれますように」とのことである。
 聖武天皇をはじめとして、朝廷の公卿たちは、すでに世の中は末法の世になっているどのように我々が真心を込めても、百万里の波頭をへだえた天竺から、急に導師が来て、供養を行うなどということはあるはずがないと、心中大いに疑っていたのではあるが、jほかならぬ行基が深慮を凝らして申し上げているのであるから、異議を唱えるわけにはいかないと、いよいよ開眼供養が明日に迫ったという日になっても、導師を決めないままでいた。

 すでに当日になったその日の朝、行基は自ら摂津国難波の浦(今の大阪湾)においでになり、西に向かって香華を供し、座具を敷いてそれを礼拝された。と、五色の雲が空にたなびき、沖合から一葉の船が波に浮かんでいるのが見えた。その上に乗っているのは天竺の婆羅門僧正である。まさに突然の出現であった。

 仏法守護の諸天善神たちは高僧の上にさす傘を持ち、難波の湊(津)の松は大雪が降ったときのように頭を下げる、それだけでも驚くべきことであるのに、妙なる香の香りがあたりに漂い、春を告げる難波津の梅の花が、一斉に開花してその香りを人々の袖にしみこませるほどに発散しているのかと思うばかりである。まことに不思議な景色である。二人の僧の出会いに立ち会うことになった人々は、改めて仏縁の深遠さを知ることになるのである。行基菩薩は、旧知の友人に会ったというようなご様子で、
 霊山の釈迦の御所(みもと)に契りてし真如朽ちせず合い見つるかな
(霊鷲山での釈尊の御説法の座で再会を約束したが、仏法の真理が不変であるようにお会いできたことよ。)
と歌をお詠みになった。すると、婆羅門僧正も
 伽毘羅会(かびらえ)に契りて起きし甲斐ありて文殊の御顔相見つるかな
(釈尊の故郷である伽毘羅会でお約束したかいがあって、文殊菩薩の化身(行基)のお顔を再び拝見できました。)
と返す。こうしてお二人は奈良に向かわれ、東大寺の大仏開眼供養を執り行われることになった。その供養の様子というのは口で語りつくせるようなものではない。天上界から降る花は風に盛んに散り乱れ、読経の声は空の上はるかに高く上っていく。上古にも、末代にもこのような供養はあり得ないというような盛儀であった。

 仏閣を築造し、仏像をつくるというのであれば、この東大寺の例に倣うべきであるのに、この天龍寺の場合には、比叡山延暦寺が盛んに横やりを入れ、最後には落慶供養を勅会とさせなかったのは異例の事態というべきである。僧侶も俗人も驕慢の心が兆したために、仏道を妨げる悪魔に付け入るスキを与えてしまったのであろうかと、人々はこの事態を怪しんだ。その結果(であるかどうかは、現代の目から見るときわめて疑わしいところであるが)天龍寺は落慶後20年のうちに2度までも焼けてしまったのは不思議なことであったと『太平記』の作者は結ぶ。

 実際問題として、東大寺も兵乱や災害のために何度か、大仏殿や本尊が焼失したことはあったのである。結局宗教と政治とが結びつくことが問題であって、問題は『太平記』の作者の認識をこえたところにあったのである。
 歴史的な事実としては、行基は東大寺の大仏開眼の時点ですでに入寂しており、開眼供養の導師となる可能性はなかった。また婆羅門僧正(菩提遷那)の来日は、大仏造立の前のことである。
 この二人がすでに過去に会ったことがあるという話だが、中国の天台太師智顗が南岳太師慧思と会見したときに、慧思がよく来られた、あなたとこの前会ったのは、釈尊が霊山で法華経を説かれたときであったなと言って迎え入れたという説話を思い出させる。宗教は、われわれの日常的な体験の世界を超えた世界であるが、あまりにも日常離れをした説話は信じられないところがある。
 
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