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梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(19)

7月20日(土)曇り、時々雨

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの東南アジア4カ国を訪問し、熱帯における動植物の生態と、人々の生活誌を調査した。これはその調査旅行の私的な記録である。
 調査に参加したのは、霊長類研究の川村俊蔵、植物生態学の小川房人、依田恭二、昆虫学の吉川公雄(医師でもある)、人類学の藤岡喜愛である。研究に協力しているタイのチュラーロンコーン大学のクルーム教授(動物学)の助手であるヌパースパット、通訳としてチュラーロンコーンに留学中の葉山陽一郎が現地で加わった。また、後からお茶の水女子大学の教授で植物分類学の津山尚が合流する意向を示した。
 一行はバンコクで開かれた第9回太平洋学術会議に参加して報告を行った後、自動車の運転の練習を兼ねてカンボジアのアンコール・ワットを訪問、その後、タイ北部における調査の準備を進め、12月24日にバンコクを出発、ロッブリー、ナコーン・サワン、ターク、トゥーンを経てチェンマイに到着した。ここでチェンマイの営林局に人員の派遣を依頼し、ドーイ・インタノン地区の森林官であるサイヤンが一向に加わった
 1958年1月2日に一行は、タイの最高峰であるドーイ・インタノンに向けて出発、山麓のメー・ホーイの村に一泊した。登山の荷物を運ぶためのウマに加えて、バンコクのフランス大使館のイヴァノフの勧めにしたがってゾウを2頭傭い入れた。谷川に沿って山を登り、山中に住むカレン族と遭遇、彼らの居住地であるソップ・エップの対岸にキャンプを設営したが、かれらとは友好的な関係を築くことができた。

カレン族
 カレン族はもともとビルマ(ミャンマー)に本拠を持ち、最大の少数民族として、ビルマ5州のうちの1州=カレン州を形成している。それだけでなく、山を越えてタイの山岳部まで進出しているのである。ビルマでは、かれらは山地民とは言えないかもしれないが、タイでは山地民として、平地のタイ人たちとは距離を置いて生活している。しかし、両者の間に交流がないわけではなく、(チェンマイ県)チョームトーン郡の郡長によれば、かれらは政府に税金を納め、また彼らの中でタイ語ができる適当な人物が村長に任命されているという。ただし、かれらが国有林の中で畑作を行なっているのは、不法行為とみなされているようである。かれらは自分たちをクリスチャンだといい、実際に、チョームトーンにある教会から、ときどき牧師がやって来ているという。

鳥かごの家
 翌日、一行は対岸のカレンの部落を見に出かけた。戸数わずかに3戸であったが、水田が開かれ、スイギュウとブタがいた。「かれらもまた、水田耕作者という点では、平原の民となんら異るところはないのである。」(213ページ)
 「家は、木と竹で組んだ鳥かごみたいな家だった。高い床と、大きくおおいかぶさる屋根にはさまれて、ぺしゃんこの、かれらの居住空間があった。」(214ページ)
 服装は、直線截ちの単純なスタイルのものだった。男たちは、ひざの下までのズボンに、赤い上着を着ていた。女は、娘たちは長いワンピースの白いのを着ていたが、年配の女は、ししゅうのある黒いツーピースを着ていた。結婚するとすっかり服装がかわるのである。男も女もみんなハダシである。
 前夜、仲よしになった少女たちが、広場で輪になって踊りをおどって見せてくれた。川村はそれを映画におさめた。

桃源郷パーモン
 その日は、さらに谷川をのぼりつづけた。谷はしだいに狭く、道は険しく入り組んできた。落葉性の広葉樹にかわって、次第に常緑広葉樹が増えてきた。「景観は、だんだん緑が濃くなり、見かけの季節は、秋から夏にかわってきたようだ。」(214ページ) 日本の山とは違って、高くなるほど緑が多くなっているのは、山の上の方が下の方よりもずっと雨が多いからである。

 「夕方、突然に森が切れて、開けた場所に出た。それがパーモンだった。」(215ページ) この附近のカレンの大中心地で、全部で90戸のカレンがいるという。
 「しかし、まったくふしぎなところだ。平原のタイ族の最後の部落から、距離にして約30キロメートル、高さにして1000メートル以上も高い。しかも、その両者のあいだは、すきまもなく大森林で埋められているのである。こんな山奥の谷間に、こんなりっぱな大集落をかまえて、別種の人たちが住んでいようとは、だれが想像し得るだろうか。
 わたしは、シナの説話の中に出てくる桃源郷というのを思いだす。桃源郷というのは、きっとこんなところだったのだろう。平原の漢民族とは別種の、南中国の山地民の村だったのかもしれない。」(215‐216ページ)
 これは注目すべき見解ではないかと思う。

「犬のくそ」という名のしゅう長
 翌日はパーモンに滞在して、登山の準備をした。まだ1000メートルほどの高さをのぼっていかなければならず、また道がないので、ウマを使うことができない。そこでカレンを傭うことにして、しゅう長と交渉にあたることになった。
 やがて部下を連れてやって来たしゅう長の名は、ヌッ・キーマーといった。この名は、タイ人の役人につけてもらったのだそうだが、北タイのことばえ「キーマー」は犬のくそという意味だという。梅棹は、日本統治時代に、台湾やミクロネシアで日本の役人が現地の人たちにでたらめな名前を付けたという話を思い出す。「しかし、魔よけのためにわざと奇妙な名をつけるという例もあるから、この場合はちがうかもしれない。」(217ページ) 梅棹はここでは慎重な態度で、解釈を回避している〔「奇妙」と言えば、織田信長が、自分の長男には「奇妙丸」→信忠、次男には(頭の格好が似ているから)「茶筅丸」→信雄と名づけたという話もある〕。

 ヌッ・キーマーは精悍な顔つきのわりには、気の弱そうな男だったが、なかなかの駆け引きをやった。それでもサイヤンがうまく交渉したおかげで、11人の人夫を適当な価格で傭うことができた。ヌッ・キーマー自身が人夫頭として同行することになった。

カレンはめっぽう強い
 1月9日の早朝、キャラバンはパーモンのベースキャンプを出発した。
 梅棹たちは、カレンの男たちが荷物をどのように持ち運ぶかを見守っていたのだが、かれらがみんな自己流で好き勝手に荷物を持ち運ぶのに驚く。大丈夫かと思うのだが、どうも平気な様子である。かれらはもちろん、ハダシである。
 しばらくは田んぼの中の道を歩いたが、田んぼがなくなると、道もなくなる。カレンたちのうち先頭の2,3人は荷物を持たず、山刀で道を切りあけた。その後を輸送隊がゆき、最後に隊員が登る。隊員が登るころには、いくらか踏み跡がついて、道のようなものができていた。
 「カレンたちは、めっぽう強い。ずいぶん無理な荷の持ち方をしているのに、けっこう平気である。」(218ページ) しかし、それでもときどき、休む。荷を下ろして、木の根っこに座りこんで、手製の葉巻を吸う。やっとのことで隊員たちが追いつき、倒木に腰を掛けて休む。「カレンの一人が、立木の一本を、山刀でチョンチョントけずって、その一きれをわたしに渡し、口に入れるよと手まねでおしえる。つーんと強い香りが走る。ニッケイである。」(218ページ)
 森林官のサイヤンが有能なので、一行は登山を順調に進めることができるが、山そのものはなかなか手ごわい様子である。さて、この後、どうなるかはまた次回に。
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