『林芙美子詩集』

7月28日(日)曇り、時々日差しが差し込む

 思潮社から出ている「現代詩文庫第二期 近代詩人篇」の『林芙美子集』(1984)を読み返す。詩を書くためには、他人の書いた詩を時々読むことも必要である。林芙美子は小説家として知られているが、すぐれた詩人でもあった。この詩集は約30年以前に入手したが、何度か読み返して今日に至っている。芙美子に対し辻潤は「あなたは詩をからだ全体で書いています」(143ページ)と書き送ったというが、あけっぴろげに自分をぶつけて詩を書くという彼女の姿勢が好きである。

 この書物の解説の中で遠丸立は「わずか20行の詩が、100枚の小説に匹敵することだってある。いや、100枚の平板な小説より、惻々と胸に迫る20行の詩の方が、文学の衝撃という点で上回ることだってある」(148ページ)と書いている。それはそうかもしれない。しかしたぶん、彼女の中では詩も小説もそれほど自覚的に区別されていたのではないかと思う。彼女は体当たりの遍歴の中でのいろいろな見聞と感想を大学ノートに書き記し、それが詩になったり、小説になったりしたということのようである。小説の中に詩があり、詩の中に小説がある。

 だから詩と小説のどちらが好きだということもない。両方とも好きである。彼女の『放浪記』は何度も読み返した本で、この本に出てくる直江津の旅館「いかや」が気になって、直江津に用事があった時にホテルセンチュリーイカヤにちゅうちょなく泊まったことを思い出す。

 その生涯の経験はどのようなものであったのか、その一例として炭坑町での経験を彼女は次のように記す:
 重たい荷を背負って
 頬かぶりをした坑夫たちが
 『おい! カチューシャ早く帰らねえとあぶねえぞ!』
 私は十二の少女
 カチューシャと言われた事は
 お姫様と言われた事より嬉しかった
 『あんやんしっかりやっておくれっ!』(32ページ)

 「カチューシャ可愛いや」の歌しか知らない坑夫たちの言葉に触れた少女時代の想い出を、トルストイの『復活』を読み、作品の社会的背景まで洞察して反芻しているところに、芙美子の凄味がある。庶民的な側面と社会批判的な側面とが経験を通じて縫い合わされている。坑夫たちの声援に声援を返す心の温かさも感動的である。小説家・詩人としての活動がこの経験と思索、心と心の縫い目をほころばせるかもしれない危険を察知しながら、彼女は「私は何でも触ったものをつかむ。/トロッコで凱旋している旅愁」(104ページ)と、風物のスケッチを続け、「一隅の人に幸福をねがうは/徒爾とのみ放ってはおけぬ」(106ページ)と心象の点検を怠らない。そのあたりが凄いのである。

 人間は放り出される瞬前でも生きる
 ぶつくさ云いながら這いずりまわる(101ページ)

 テレビや名画座で『浮雲』を見て接する芙美子もあれば、(少し年を取り過ぎた感じがないでもなかったが)森光子の舞台を通して知る芙美子の姿もあった。だが、詩集を通じて知ることもできる芙美子の姿も我々は見失うべきではないのである。 
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