語学放浪記(8)

7月27日(土)夜半に雨、朝のところでは晴れたり曇ったり

 少し話を戻して、一海知義先生について書いてみたい。先生が陶淵明の研究家であるという予備知識はあったことは既に書いた。岩波の『中国詩人選集』で先生が担当された『陶淵明』も『陸遊』も学部時代に読んだ。岩波新書の『陶淵明―虚構の詩人―』を今、読みなおしている。陶淵明を「酒の詩人」、「超俗の詩人」、「田園詩人」、「隠遁詩人」と評する通説に対して、「虚構の詩人」という新しい見方を提案し、彼の代表的な作品「桃花源記」、「五柳先生伝」、一連の「形影神」詩、「山海経を読む」、「閑情の賦」、挽歌詩、自祭文の分析から自説を裏付けている。読み応えのある本であると改めて思う。

 ところで、私が書きたいのは、一海先生が素晴らしい研究者である、あるいは偉い先生であるということではなくて、そう思って授業に出てみると実物との落差に戸惑うことがあったということである。高校時代に漢文が好きだったり、興味があるという学生にとっては一海先生は注目すべき少壮学者であったが、たいていの学生にとってはただの中国語の先生であった。私が欠席した授業であったか、あるいは先生がもたれていた2コマの中国語の授業の私が履修していない方のもう1コマでのことであったのか、定かではないが、先生が授業中に中国語で「インタナショナル」を歌われたことが話題になり、一部の学生が怒っていたことがある。このことと関連して尾崎先生が「一海くんは中国というよりも、中華人民共和国が好きな人なんですよ」と言われていたのを思い出す(くだらないことはよく覚えている)。『陶淵明』のあとがきで先生は「私が大学に入学した年、中華人民共和国が成立し、日本の多くの若者の関心は、中国革命に集中した。私も例外ではなかった」(213ページ)と書かれている。先生の中国文学への関心は人民中国への関心と結びついていたのである。それを情熱と見るか、偏りとみるか、学生の受け取り方は分かれるところであったと思うが、私は情熱だと思った1人である。

 そういえば尾崎先生の中国語初級の最初の時間で先生が王翰の「涼州詞」をPu tao mei jiu ye guang bei・・・と現代中国語の四声の響きを伝えるために朗唱されたことを思い出す。先生が実際に朗唱されたことで印象が強くなった。

 大学で2年間少しは真面目に中国語を勉強したことで、大学教育とか大学の先生の内実について少し詳しい知識を得たのは幸運であった。2年間の学習では中国語を知るには十分とはいえない。しかし結構貴重な別のことを学んだような気がする。学生が見ている教師の姿は豹のたくさんある斑のせいぜい数個にすぎないのである。学生が知ることのない多くの隠れた側面を教師はもっている。学生は自分の勉強の、あるいは生活の水準に即して教師を知るのだが、自分の認識がごくごく制約されたものであることになかなか気付かない。「坊っちゃん」が団子を食べたり、うどんを食べたりする姿を見つけて、中学生たちは先生のすべてを知ったような気になって得意がっているが、彼らの知らない教師の側面はあまりにも多い。それを少しずつでも見つけ出していくことで学校生活はもっと有意義なものになるはずである。教師の方は学生のなれの果てであるから、そのことは分かっているが、学生に対して面と向かってそういうのはなんとなく気恥ずかしい。その辺の呼吸は、結局のところ学生が自分で勉強しなければ分からない・・・ということである。

 世間的に名の知れた大学に入ると、有名な先生の授業を聴講する機会は多くなる。その実像や世評との落差を知るのは貴重な経験である。そしてさほど有名ではないけれども、深い学識を蔵した先生に出会うのも学生生活の楽しみである。それだけでなく、学生とともに先生の方もさらにその学問を深めているのである。一海先生は多くの著作を発表されてきたが、まさかその著作集が編纂されるに至るとは思わなかった。著作集にまとめられるだけの研究の蓄積とその社会的な評価の高さには敬服すべきである。先生に比べて私の勉強が足りないこと、またその結果として著作集を買いそろえる資力がないことが悔やまれる。
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