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齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(9)

4月3日(水)晴れ

これまでの概要
 第1章 織田信長と北条氏政・氏直 天正10年まで
 第2章 合戦の序曲 天正10年後半~11年
 第3章 沼尻の合戦 天正12年
 第4章 小牧・長久手の戦いとの連動
 第5章 合戦の中に生きる人びと
 第6章 沼尻の合戦後の東国
 第7章 秀吉による東国の戦後処理

  天正10(1582)年3月に武田氏が滅亡し、織田信長の影響力が関東にも及ぶことになった。小田原を本拠とする北条氏は氏政・氏直父子を中心として、信長と連絡を取り、関東の国主としての地位を認めてもらおうと工作を続けていたが、この年の6月に起きた本能寺の変で、信長政権が倒れたため、戦術の見直しを余儀なくされる。
 当時、関東では南から、関東における覇権を目指して北上する小田原北条氏と、佐竹義重、宇都宮国綱ら北関東の在来勢力が対立・抗争を繰り返していた。その戦いがもっとも大規模に展開されたのが、天正12(1584)年に下野南部の沼尻で起きた合戦である。この合戦は両者引き分けに終わるが、戦後処理の過程で、政治力に勝る北条氏がその支配領域を拡大することに成功する。
 信長の死後、台頭してきたのが、その武将であった羽柴(豊臣)秀吉である。彼は柴田勝家、信長の三男信孝を滅ぼしたのち、信長の次男信雄、信長の同盟者であった徳川家康の連合軍と戦うことになる。これが小牧・長久手の戦いである。局地的な戦闘では信雄・家康軍が勝利したが、動員力と政治力に勝る秀吉は、信雄、次いで家康を臣従させることに成功する。
 ここで注目されるのは、関東における沼尻の合戦と天下人の座をめぐって展開された小牧・長久手の合戦とが連携する性格をもっていたことである。すなわち、小田原北条氏と家康との間には同盟が締結されていたし、北関東の領主たちは秀吉と連絡を取り、その応援を求めようとしていた。
 天正13年に関白の地位に就いた秀吉は、その地位と、天皇の権威を利用して全国にその支配を拡大しようとする。その際に、関東で勢力拡大を追求し続けている北条氏を抑えることが重要課題になっていった。秀吉は、越後の上杉景勝を通じて北関東の領主たちを支援する一方で、新たに自分の陣営に加わった家康と、北条との同盟関係を利用して、平和裏に北条氏を臣従させようとするという両面作戦をとることになった。北条氏の側では、氏政の弟である北条氏規を秀吉のもとに派遣して、和平を求める一方で、もう一人の弟である氏照が伊達政宗と連絡して、佐竹氏攻撃を画策するなど、関東を統一するという夢をまだ捨ててはいなかった。

第8章 「豊臣の天下」と「北条の夢」 天正17年
  1 足利事件と「惣無事令」
 由良国繁・長尾顕長の抵抗
 天正16(1588)年8月、足利で合戦が起きた。足利城が舞台となっていることから、合戦の当事者は長尾顕長である。攻め手には北条氏照・北条氏邦が当たっている。
 長尾顕長(?ー1621)は上野の由良国繁(1550‐1611)の弟で、関東管領山内上杉家の重臣であった足利長尾氏の養子となっていたが、天正8(1540)年の時点では、北条氏政・氏直父子の側に属していたが、佐野宗綱の説得工作の結果、天正11(1583)年には北関東の反北条陣営に寝返り、沼尻の合戦後の天正13(1585)年には北条氏直に赦免されて、再び北条氏に属することになった。
 ところが、北条氏政・氏直が課した軍役に対して、顕長自身が参陣しなかったために、衝突が起きた。この事件をめぐっては、北条領内の問題であると考えるか、領主間の対立ととらえるかで処理の仕方が変わってくる。その一方で、京都では北条氏規が秀吉に拝謁していた。関東をめぐる情勢は依然として複雑であった。

 桐生・足利両城の破却
 長尾顕長だけでなく、実の兄である桐生の由良国繁も問題とされたが、彼は北条氏邦にとりなしを依頼し、桐生城を立ち退き、その結果、桐生城は破却され、彼自身は小田原在府とされた。
 顕長は逆意はないと申し開きをして、足利城を出て、足利城もまた破却された。彼も小田原在府となったものと推測される。
 金山城と館林城を拠点として、上野国東部から下野国南西部にかけて勢力を誇った由良国繁・長尾顕長の兄弟はこれにより、この地域における影響力を完全に失った。
 秀吉はこの問題を、北条領国内部の問題として取り扱い、介入することはなかった。

 老母の活躍
 しかし、由良国繁、長尾顕長は、内々に豊臣秀吉と連絡を取っていた。そして、兄弟の母は覚悟を決めて足利城に立てこもって、問題を大名間の領地をめぐる紛争として秀吉の裁定を仰ぐことを望んでいたが、かなわず、城を出ることになった。
 その後、天正18(1590)年に、由良国繁、長尾顕長兄弟は小田原に籠城していたが、秀吉は、老母の足利城での奮戦を忘れずに、彼女に堪忍分(生活費)として常陸国牛久を与える。(この領地は、その後、徳川幕府の旗本となった由良国繁の子孫が継承することになる。)

 鑁阿寺の禁制
 足利城の攻防の際には、その影響が及ぶことを懸念して、足利学校と鑁阿寺が北条側に禁制の発給を要請し、北条氏邦はこれを認めている。ところが、北条側の施策に落ち度があり、寺は被害を受けたので、寺側から抗議をしたところ、北条側は冷たい対応をして、寺は自分で自分を守るのが当然だという趣旨の回答をした。
 著者はここに、権力が平和を維持するのは当然だとする鑁阿寺側の「豊臣の天下」論(近世の論理)と、自分の身は自分で守れとする北条側の中世的な論理との対立を見る。注目すべき見解である。 

  2 「御赦免」の影響 
 反北条勢への上洛要請
 北条氏規の上洛により、北条氏政・氏直父子が「御赦免」され、豊臣・北条の敵対関係が取り除かれたことで、それまで秀吉と同盟関係を結んでいた北関東の諸領主の置かれた立場も変化してきた。
 天正16(1588)年に秀吉は佐竹義重・結城晴朝・太田道誉とその子息である梶原政景らに朱印状を送り、北条氏政・氏直の「御赦免」を知らせるとともに、彼らの上洛を要請している。

 石田三成と宇都宮国綱
 天正17(1589)年に宇都宮国綱は上洛するという連絡を行う。これに対し、石田三成が返書を送り、早急の上洛を求めている。この書簡の中で、著者は3つの点に注目している。
 ①北条氏は豊臣政権に包摂されたはずなので、国綱の不在に乗じて、その領地を奪うことはない。またたとえ奪ったとしても最終的には領土は保証される。
 ②宇都宮に先立って、北条氏照が上洛し、宇都宮に対して不利な申告をする可能性があるので、一刻も早く上洛すべきである。
 ③上洛に際しての進上物などの準備は無用なので、まずは上洛することが第一である。
 秀吉の態度が、かつての同盟者に対する庇護という姿勢から、天下人である秀吉の秩序に従い、速やかに上洛するようにという圧力へと変化していることが注目されるという。 

 伊達政宗への上洛要請
 秀吉は北関東、さらに東北地方の他の大名たちにも、地域的な紛争の停止と上洛の要請を続けた。
 天正16(1588)年には伊達政宗に対し、施薬院全宗から北条氏規が上洛したので、政宗も状況が許せば上洛してほしいとの連絡が届く。さらに10月には富田知信が政宗に上洛を要請する。東北地方の他の大名が上洛を明言しているので、先を越されると聞けにとって不利が生じると警告もされている(現実に津軽家と南部家の地位が逆転したのは、このような事情が関係している)。
 「北条氏政・氏直の「ご赦免」は上洛要請をより北へと拡大させる画期となった。「豊臣の天下」は確実に広がり、列島を覆いつくそうとしていた。」(192ページ)

 今回で、この書物の紹介を終えようと思っていたのだが、第8章の3が残ってしまった。この章の紹介は、書物全体の論評とともに次回にゆずることにしたい。今回は、北条氏政・氏直父子の「御赦免」をきっかけとして、秀吉の北関東・東北の大名・領主たちへの姿勢が変化したというところが注目点である。しかし、北条氏は大大名だけに一家の中でのまとまりがなかなか取れない。さて、どうなるか・・・。
 施薬院全宗は豊臣秀吉の側近の一人であった医者。富田知信(?ー1599)は信長・秀吉に仕えた武将で、伊勢・安濃津5万石の大名となった。武将としてよりも、外交手腕に優れていたといわれる。関ケ原の戦いの前哨戦である安濃津城の攻防戦で知られる富田信高は彼の長男である。秀吉は自分自身で外交を進めるのではなく、そういう能力のある部下や側近を使って、全国統一を進めていったようである。 
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