語学放浪記(7)

7月17日(水)曇り

 先日、ある新聞の世論調査の質問項目に「外務大臣には英語ができる人がなるべきか」というようなものがあった。これは愚問である。日本の外交的な地位が経済的な地位に見合わないのは、外交政策の結果であって、それは外務大臣や外務省の責任というよりも、国民の国際政治や経済についての認識の問題である。確かに一般的に言って英語ができる方が、出来ないよりもよい。が、それは外務大臣に限ったことではない。むしろ国民がもっと英語で物を読んだり、書いたりする努力を心がけるべきだということである。第2に、なぜ、英語かということを問題にすべきである。国際関係において重要なのは英語だけではない。現実にアラビア語の通訳の経験があり、英語圏の新聞に論説を寄稿している元閣僚がいる。政治家の中には2つ以上の言語に通じている人は少なくないようである。そういう人がもっと増える必要があるが、それは国民全体の語学力の向上を前提とするはずである。国民が外交は誰か、えらい人のすることだという意識を捨てなければ、民主国家の外交とはいえない。それから「できる」というのは相対的なもので、ご本人ができると思っていても、現実の場面で役に立たなければできないわけであるし、周りの人が過大評価していたり、過小評価している場合もあって、その場合も同じことが言える。なまじ少しは様子がわかると余計な気を利かせる人が少なくないが、その結果誤解が生まれることもある。自分の語学力を過信して暴走するような人が一番怖い。だから「できる」ということに慎重になる必要がある。

 さて、中国語を2年間勉強したが、十分にできるようになったとはいえない。一応、本は読めるようになったが、幸か不幸か、中国では文化大革命が起きた。詳しい事情は省くが君子危うきに近寄らずということで中国語の学習から遠ざかり、大学院の入試科目ではなかったこともあり、その後の職業生活においても中国とは縁のない仕事をしてきたこともあって疎遠になってしまった。その間中国の社会も言語も大きく様変わりして、自分が習った中国語は古いものになってしまった。20年以上の中断を経てNHKまいにち中国語の時間を聴いて、中国語の変化に驚いたものである。

 文化大革命というと思いだすのは、当時は中国書籍店の店頭に毛沢東語録のさまざまな言語による版が並べられていたことである。考えてみると、そのとき以来、お目にかかっていない言語というのがありそうで、何冊か珍しい言語のものを買っておけばよかったという気がしないでもないが、どうせどこかに紛れ込んでしまうのが落ちであったと思うことにしている。毛沢東はいろいろな名文句を残しており、彼の語録はそれなりに読む価値があるとは思うが、語学の教材としてはどの程度の効果が期待できるだろうか。

 そんなことを書いたのは、語学の教材として聖書がいいという話があるからで、例えばアイルランド文化復興運動を推進したグレゴリー夫人はアイルランド(ゲール)語を聖書で勉強したという。ただ、これは聖書の中身をよく知っている、部分的にせよ頭に入っている内容があるから可能になったのであって、聖書とは縁のない人が聖書を教材にして外国語を学んでも効果は限定的であろう。

 考えてみると尾崎先生の中国語の時間で『彷徨』を読んだとき、その作品の全部を竹内訳で読んでいたというそれまでの経験があったから中国語の授業に何とかついていけたのである。先生は学生の大半が既に竹内好、あるいはその他の翻訳で『彷徨』を読んでいることを前提として授業をされていたわけで、そうするとこちらは翻訳の問題点を探るようなもっと高次の読み方をすべきであったと今になって思う。そういう努力をすることにどういう意味があるのかばかり考えた結果として、その努力の先に見える世界を見つける機会を失う・・・ということは人生の中で意外に多かった。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR