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『太平記』(249)

2月12日(火)曇り

 暦応4年(南朝興国2年、1342)、越前の南朝方が足利方の攻勢でほとんど姿を消し、大将の脇屋義助も美濃に移った中で、義助の家臣で大力剛勇をうたわれた畑時能は鷹巣城に立てこもり、それに新田一族の一井氏政が合流して宮方の孤塁を守っていた。
 少数でもあなどることができない危険な存在であると、足利方の越前守護の斯波高経、北国に援軍として派遣されていた高師治らは7千余騎の軍勢で、鷹巣城の周囲に向かい城を築いて包囲した。しかし、時能は彼と同じくらい大力の甥の悪僧・所大夫快舜、中間でやはり大力の持ち主である悪八郎、それに不思議な力をもつ犬の犬獅子の助けを借りて、防備に欠陥のある向い城を攻撃して、足利方を悩ませた。

 寄せ手の中で、加賀の国の住人である上木平九郎家光という武士は、(もともと新田方だったのが、足利方に寝返った経緯がああるので)、城へ数百石の兵糧を送ったという噂が広がり、誰がか知らないが、大将である高経の陣の前に「畑を討たんと思はば、まづ上木を斬れ」(第4分冊、40ページ、「畑を打つ(耕す)なら、まず植えてある木(上木)を切れ、という意味をかけている)と秀句(しゅうく=洒落)を書きつけた高札を立てたものがいた。

 これを見て高経も上木を警戒するようになり、朋輩の武士たちもうちとけない様子を示すようになったので、上木はそれを悔しいことに思って、2月27日の早朝に、自分の一族と手勢200余人を率いて、急ごしらえながらしっかりと武装し、真竹を打ち削り、それを楯の面に貼って、一斉に楯をかざし連ねて鷹巣城に寄せかけた。
 その他の寄せ手の武士たちは、城内の様子に詳しい上木が急に攻め込もうとするのは、必ずや陥落させようという所存だろう、上木一人の手柄にさせるな。みんなで続けと37か所の城の7千余騎が取る物もとりあえず、岩根を伝い、木の根にとりついて、険しい鷹巣の山坂18町を一息に上がり、切り立った険しい崖の下半町ばかりを攻め立てようとした。

 このように寄せ手は勇み立って城を急襲しようとしたのだが、城の中では「ただ置いて、事の様を見よ」(第4分冊、41ページ、したいようにさせて、様子を見よう)と、鳴りを潜めて音も立てないでいた。
 寄せ手が鹿垣(ししがき=鹿や猪など獣よけの垣を戦場に用いたもの)の近くまで登ってきたときに、畑時能、その甥の所快舜、妹尾新左衛門、若児玉五郎左衛門(武蔵国埼玉郡若小珠=埼玉県行田市/に住んだ武士)、鶴沢蔵人(福井県越前市に住んだ武士)の5人の武士が、思い思いの鎧に、太刀、なぎなたの切っ先を揃え、思い思いに名乗り、叫び声をあげて襲い掛かった。
 人数は寄せ手の方が圧倒的に多いが、作戦に基づいての意思統一はせずに先を急いで、急斜面を登ってきて息が切れているうえに、不意を突かれた形になってしまった。しかも、このように傾斜地で戦う場合には上の方から押しかけるほうが有利である。
 妹尾新左衛門というのは、異本によっては長尾と記されているらしい。長尾であれば、坂東八平氏の流れをくむ相模の長尾氏の一族であろうか。若児玉というのはその名から武蔵の児玉党との結びつきが思い浮かぶが、それを裏書きする資料が見当たらない。

 城に人はいないものと油断して、無警戒に進み近づいてきた先頭の100人あまりは、これに驚いてバラバラになり、お互いに助けをえようと今度は一塊になろうと集まりだしたのを見て、畑時能の中間の悪八郎が、直径8寸から9寸ばかり(30センチ弱)の大木を脇に挟み、50人がかり60人がかりでも動かないような岩があったのを、ひょいとばかりにはね起こして、石弓のように大岩を放った(まさかね!) その岩にぶつかって大木が4,5本折れて、斜面をごろごろ転がって行き、その音は雷が大地を揺るがすように聞こえた。岩に当たって砕けて落ちる石が、2・300に分かれて、兜を打ち砕き、楯を打ちひしぐ。これは仏教でいう転輪王の宝器である輪宝が山を崩し、ゴロゴロした岩を落ちつぶすことをほうふつとさせた。
 こうして打ち殺されたものが70余人、戦いの後に血を吐いて死んだ者、傷を負って運動の自由を失ったものは数えきれなかった。
 この攻撃の失敗後は、寄せ手は、この経験を肝に銘じて、これまでよりも向かい城を遠くに築き、決して攻撃をかけようとせずに包囲を続けることにした。

 敵の向かい城が近くにあったときであれば、夜な夜な夜討ちをかけて敵を疲れさせ、兵糧を常に城へと取り込むこともできたが、敵軍が向かい陣を、山を隔て、川を越えた場所に構えるとなると、時能は施す手段がなくなってしまった。かくなる上は、両者正面からたたかうような目覚ましい戦いをして、自分が戦死するか、敵をかけ散らすか、そのどちらになるか、運を天にまかせようと思ったので、鷹巣城には一井氏政を大将として11人を残し、自分は甥である所大夫快舜、悪八郎為頼以下の武勇に優れた者たち16騎を率いて、10月21日の夜半ばかりに、豊原(福井県坂井市丸岡町豊原にあった天台宗寺院、豊原寺)の北にあたる伊地智山(いじちやま=勝山市北郷町伊知地の鷲ヶ岳、実際は豊原の東南)に登り、新田の中黒の旗を2流れ立てて、寄せ手を待ち受けたのであった。

 斯波高経はこれを聞いて、畑が鷹巣城から自分の軍勢を分けてここまで出撃してきたとは想像できず、豊原寺と平泉寺(勝山市平泉寺町にある天台宗寺院、現在は平泉寺白山神社になっている)の衆徒たちが宮方に寝返って、挙兵したものと考えて、できるだけ早く対応しようと、急いで、同じ22日の卯の刻(午前6時ごろ)に、3千余騎で押し寄せた。最初のうちは敵の多少がわからなかったので、簡単には進むことができなかったが、小勢であると見極めたので、少しも恐れることなく、我先にと進んでいったのである。

 足利方の斯波勢は3千余騎、宮方の畑時能の率いるのはわずか16騎、数の上では勝負にならないはずである。とはいえ数を頼んで、作戦も十分に立てずに押し掛けると、少数だがえり抜きの決死の軍勢に思わぬ苦戦をすることがある。さて、この戦いの行方はどうなるか…というのは次回。
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